中編
2ピッチまではほぼ垂直だが少し90度より少ない角度で80度位。
ピンもしっかりしているが、時々ピンの感覚が異常に遠く、
フリー交じりだったりする。だんだん90度よりかぶりだすと、
ピンの感覚も遠いのが無くなる。その後の事は、
あまり細かい所は覚えてないが、時折吹くそよ風が気持ちよく、
夢の中に自分はいるんではないかと言う錯覚に陥る時もあった。

基本は、空身で登って、懸垂下降で下って、
10キロのザックを背負って又登りなおす。
かなり被ってる所は懸垂下降だと
空中に中吊りになってしまうので、
アブミのかけ替えで下った所もあるが、
少し被ってるので懸垂下降中、
360度くるくる回りながら下ってて、
下のテラスから雲稜ルートを登ってるパーティーが
奇声を上げたり指笛ならしたりして冷やかしてくれた。
『9mmか、よくあんなことやるなあ』と
言ってるのが聞こえた。今思うと自分でもぞっとする。
だんだん核心部に近づいてくる。
庇の大ハングが眼前に覆いかぶさってきて圧倒される。
だが、引き返すことは不可能なのは自分が一番わかってるし、
行くしかないという覚悟はとっくにできている。
幸い抜けて、無い ハーケンはなかった。
技術的には自分の許容範囲内だったので、
そこは幸運であった。
ただ、この7m水平に飛び出てる大ハングを一度登って、
下って又登る事になる。
おそらくこの庇を下ったのは私だけだろう。
2度目を登りだす所迄は順調であった。しかし、
乗っ越す所でカラビナがザイルの下になってしまい、
自分が体重をかけてるアブミを支えてるカラビナが
上から力をかけてしまって、
ザイルが外れなくなってしまった。
このまま乗越すとザイルが回収できない。
こまってるうちに腕力も疲れてきた。ヤバかった。
一か八かで、アブミに反動をつけて、
一瞬浮いた時にザイルを外した。
ピンが抜けなくてよかったし、カラビナが外れなくてよかった。
どっちかが起きてたら、今頃私はこの世にいない。
まだアブミの2段目にある足は
庇のてっぺんの僅かに下にあるのだが、
膝から上が乗越して体制は安定してる状態だったので、
カラビナにしがみついたまましばらく目をつぶって
『よかったー』と心で叫んでいた。
なぜならば、ゲレンデでトップで墜ちた事が2度程あったが、
落ちる寸前の心境に近かったからだ。
幸い、7メートルの大ハングの上は傾斜80度位であった。
仮に、そのまま90度以上にかぶってる状態が続いていたら、
私は今この世にいない。あとは油断してミスする事が無いように、
最新の注意を払いながら、延々と続く残りのピッチを登っていく。
7メートルの庇が15時位から17時位までかかった。
この核心部を1往復半するのを、雲稜を登ってる多くの人が見ていた。
『行ったー!』と叫んでるのが聞こえた。

2006年位に2人でこの小倉ルートを登った記録がネットにある。
この記録によると、核心部の所が、何本もピンが抜けた跡があって、
ピンと一緒に岩もはがれた跡が数か所あると記されている。
私が単独で登ったのが1979年だから、それから27年経っているが、
何人も叫びながら命を落とした痕跡、と記されていた。
これを読んだ時に、私は本当に運が良かったんだなあ、と思ったのだ。
核心部の手前で(どこで落としたかはわからないが)
気がついたらアブミが2つしかなかった。1個落としたのだ。
だが、全体が被ってるから、何もぶつからずに下まで落ちたのだろう、
全く音もしなかったし気が付かなかった。
『あと1つ落としたらもう登れなくなる、絶対にミスできない』
そう思ったのを覚えている。
そしてだんだん薄暗くなってきて、途中からヘッドランプの明かりで登った。
傾斜が緩くなったが足場がないからアブミのかけかえで登るしかなく、
靴の中央にアブミをのせるのがめんどくさかったが、時間がかかったが、
黙々とミスしない様に登った。樹木帯についに入った。
確保を太い樹木にとった。このピッチを1往復半した所で、ザイルを回収した。
ざっとまとめただけで、そのままより安全な所迄登って、
そこでザイルをきれいにループした。そして、登山道に出たので、
どかっと腰を下ろした。大きな満月だった。
涙がいっぱいいっぱい出た。相当泣いたのを覚えている。
その位嬉しかった。夜の10時半だった。
もう何も飲む気も食べる気もしなかった。
とにかく朝までに横尾の荷物の所迄戻ろう。
クマに合わない様に気を付けて下ろう、そう思いながら、
ふらつきながら下った。途中で休憩したのかしなかったのか全く覚えていない。
多分、夢遊病者の様にふらふら歩いてたんだろうと思う。
そして朝の5時に荷物の所に戻った。
大きな声で『ただいま、戻りました、生きて戻りました』と
荷物に大きな声で報告した。