蜻蛉日記の中の和歌(4) | 俳句の里だより2

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上巻(4)

 

ここでは、平安時代の代表的な日記文学である「蜻蛉日記」(上・中・下の全3巻、作者は藤原道綱母、成立は天延2年(974年)か)の中で詠まれた和歌(本編は260首(うち長歌3首、連歌2首))について紹介しており(他に「巻末歌集」として50首あり)、19歳頃の天暦8年(954年)に藤原兼家と結婚し、39歳頃の天延2年(974年)に兼家と疎遠になるまでの約21年間の結婚生活の回想録の中で詠まれた作者(藤原道綱母)と夫(藤原兼家)の歌などである。

 

前回は上巻の天徳2年道綱4歳から康保元年道綱10歳まで(作者24~29歳頃)の30首を紹介したが、ここでは上巻の続き(康保2年、道綱11歳から安和元年、道綱14歳まで:作者30~33歳頃)の36首を紹介する。また、今回をもって上巻の歌の紹介を終え、次回から中巻の歌を紹介する。

 

◎上巻(康保2年:965年、道綱11歳)

●母の一周忌

〇家には弟(藤原長能)と叔母が同居しているが、年が改まり山寺で母の一周忌の法事を終え、帰宅して悲しみの中で道綱母が詠んだ歌

 藤衣 流す涙の 川水は きしにもまさる ものにぞありける

 

●琴を弾く

〇母の命日が過ぎ、道綱母が琴を弾いていると、それを聞き叔母が昔のことを思い出し詠んだ歌

 今はとて 弾き出づる琴の 音を聞けば うち返しても なほぞ悲しき

〇それに対して道綱母が亡き母を思い出して詠んだ歌

 亡き人は おとづれもせで 琴の緖を 絶ちし月日ぞ 返り来にける

 

●離京する姉との別れ

●姉の離京を叔母と悲しむ

〇9月10日過ぎに、頼りにしていた姉が京を離れて遠くへ去ったので、物思いに耽っていると叔母が詠んだ歌

 ひきとむる ものとはなしに 逢坂の 関のくちめの 音にぞそぼつる

〇叔母と同じく、姉のことを心配しながら道綱母が詠んだ歌

 思ひやる 逢坂山の 関の音は 聞くにも袖ぞ くちめつきぬる

 

◎上巻(康保3年:966年、道綱12歳)

●兼家、病に倒れる

●道綱母、兼家邸へ

〇病に倒れた兼家を見舞いに訪れて戻った昼頃、兼家から手紙が届き、それに書かれていた兼家が詠んだ歌

 限りかと 思ひつつ来し ほどよりも なかなかなるは わびしかりけり

〇それに対して道綱母が詠んだ歌

 われもさぞ のどけきとこの 浦ならで かへる波路は あやしかりけり

 

●葵祭、時姫との連歌

〇4月、賀茂の祭りを見物に出かけると、時姫(兼家の正妻)も見物に来ていたので、道綱母が時姫に「あふひとか 聞けどもよそに たちばなの」と詠んで送ると、時姫から道綱母に「きみがつらさを 今日こそは見れ」と送ってきた連歌

 あふひとか 聞けどもよそに たちばなの きみがつらさを 今日こそは見れ

 

●五月の節句

〇5月5日の節会を帝が催すことになり、見物の用意などをしながら、宵の頃に道綱母が詠んだ歌

 あやめ草 生ひにし数を 数へつつ 引くや五月の せちに待たるる

〇それに対して兼家が詠んだ歌

 隱れ沼に 生ふる数をば 誰か知る あやめ知らずも 待たるなるかな

 

●荒れていく宿

●道綱の悲しみと「泔坏(ゆするつき)」の水

〇ちょっとしたことで兼家が出て行った日、使った泔坏の水がそのまま残り、水の上に塵が浮かんでいるのを見て、道綱母が詠んだ歌

 絶えぬるか 影だにあらば 問ふべきを 形見の水は 水草ゐにけり

 

●稲荷に詣でる

〇9月、稲荷神社に詣でて神にお願いをしようと、最初に下の御社に道綱母が詠んで書きつけた歌

 いちしるき 山口ならば ここながら 神の気色を 見せよとぞ思ふ

〇同じく、次に中の御社に道綱母が詠んで書きつけた歌

 稲荷山 多くの年ぞ 越えにける 祈るしるしの 杉を頼みて

〇最後の御社に道綱母が詠んで書きつけた歌

 神がみと 上り下りは わぶれども まださかゆかぬ ここちこそすれ

 

●賀茂に詣でる

〇9月末、今度は賀茂神社に詣でて、下の御社に道綱母が詠んで書きつけた歌2首

 かみやせく しもにや水屑 積もるらむ 思ふ心の ゆかぬみたらし

 榊葉の ときはかきはに 木綿垂や 片苦しなる 目な見せそ神

〇同じく、上の御社に道綱母が詠んで書きつけた歌2首

 いつしかも いつしかもとぞ 待ちわたる 森のこまより 光見む間を

 木綿襷 むすぼほれつつ 嘆くこと 絶えなば神の しるしと思はむ

 

◎上巻(康保4年:967年、道綱13歳)

●九条殿の女御と贈答

〇3月末、道綱母が卵を生糸に10個重ねて作り、卯の花に結び付けて九条殿の女御にさし上げた、その返事に女御が詠んだ歌

 数知らず 思ふ心に くらぶれば 十重ぬるも ものとやは見る

〇それに対して道綱母が詠んだ歌

 思ふほど 知らではかひや あらざらむ かへすがへすも 数をこそ見め

 

●村上天皇崩御

〇5月20日に村上天皇が亡くなり、兼家は蔵人頭に昇進するが、藤原登子(村上天皇の後宮、兼家の妹)に対して道綱母が詠んだ歌

 世の中を はかなきものと みささぎの うもるる山に 嘆くらむやぞ

〇それに対して藤原登子が詠んだ歌

 遅れじと うきみささぎに 思ひ入る 心は死出の 山にやあるらむ

 

●藤原佐理夫妻の出家

〇7月になり藤原佐理夫妻が出家、尼になった佐理妻に対して道綱母が悲しく思い詠んだ歌

 奥山の 思ひやりだに 悲しきに またあまぐもの かかる何なり

〇それに対して佐理妻が詠んだ歌

 山深く 入りにし人も 尋ぬれど なほあまぐもの よそにこそなれ

 

●道綱母、兼家邸の近くに転居

 

◎上巻(安和元年:968年、道綱14歳)

●登子との交流 ー木彫り人形ー

〇前年の11月中頃に道綱母が兼家邸の近くに転居、同12月末には藤原登子が近くに住むことになり、元旦になって登子の侍女が木彫りの人形を持って来たので、道綱母がその人形に書きつけて登子へ贈った歌

 かたこひや 苦しかるらむ 山がつの あふこなしとは 見えぬものから

〇それに対して登子が詠んだ歌

 山がつの あふこ待ち出でて くらぶれば こひまさりける かたもありけり

 

●登子との交流 ー文の行き違いー

〇3月になり、兼家が登子に贈った手紙が間違って道綱母に届いたことを兼家がからかったので、道綱母が登子に対してか詠んだ歌

 松山の さし越えてしも あらじ世を われによそへて 騷ぐ波かな

〇それに対して登子が詠んだ歌

松島の 風にしたがふ 波なれば 寄るかたにこそ たちまさりけれ

 

●登子との交流 ー道綱母、登子を訪問ー

●登子との交流 ー歌の贈答ー

〇登子は時々夢で不吉なお告げがあったので、7月の月が明るい夜に「夢違えする方法はないのかしら」と言って登子が詠んだ歌

 見し夢を 違へわびぬる 秋の夜ぞ 寝がたきものと 思ひ知りぬる

〇それに対して道綱母が詠んだ歌

 さもこそは 違ふる夢は かたからめ 逢はでほど経る 身さへ憂きかな

〇それに対して登子が詠んだ歌

 逢ふと見し 夢になかなか くらされて なごり恋しく 覚めぬなりけり

〇それに対して道綱母が詠んだ歌

 言絶ゆる うつつや何ぞ なかなかに 夢は通ひ路 ありと言ふものを

〇それに対して登子が詠んだ歌

 かはと見て ゆかぬ心を ながむれば いとどゆゆしく 言ひや果つべき

〇それに対して道綱母が詠んだ歌

 渡らねば 遠方人に なれる身を 心ばかりは 淵瀬やは分く

 

●初瀬に詣でる

〇9月に初瀬詣で(長谷寺)に出かけ、京へ戻る途中に兼家が従者を迎えに遣り、宇治川の付近で霧が立ち込め、網代が見えている時に、道綱母が対岸にいる兼家に対して詠んだ歌

 人心 うぢの網代に たまさかに 寄るひをだにも 尋ねけるかな

〇舟がこちらの岸に戻ってくるときに、兼家が返事に詠んだ歌

 帰るひを 心のうちに 数へつつ 誰によりてか 網代をも訪ふ

 

●大嘗会御禊の見物

●上巻の結び、かげろうの日記