和泉式部日記の中の和歌(3) | 俳句の里だより2

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俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

第13段~第16段

 

ここでは、平安時代の代表的な日記文学である「和泉式部日記」(全30段、作者は和泉式部、成立は寛弘5年(1008年)か)の中で詠まれた和歌(144首、うち2首は連歌)について紹介しており、長保5年(1003年)4月から翌寛弘元年(1004年)1月にかけての10ヶ月間に詠まれた和泉式部と敦道親王(帥宮:冷泉天皇の第4皇子)との贈答歌である。前回は第7段~第12段までの26首を紹介したが、ここでは第13段~第16段までの24首を紹介する。

 

●第13段:八月、石山詣で

〇8月になり、和泉式部は淋しさを慰めようと石山寺へ7日間籠るために出かけた。それを知り、敦道親王は手紙を書いて小舎人童に石山寺まで届けさせた。和泉式部が手紙を開くと「どうして石山寺に籠っているのですか」などとあり、敦道親王が詠んだ歌

 関越えて 今日ぞ問ふとや 人は知る 思ひたえせぬ 心づかひを

〇わざわざ石山寺まで手紙を届けてもらったことを嬉しく思い、和泉式部が詠んだ歌2首

 近江路は 忘れぬめりと 見しものを 関うち越えて 問ふ人やたれ

 山ながら 憂きはたつとも 都へは いつか打出の 浜は見るべき

 

〇手紙を見て、再び敦道親王が小舎人童に石山寺まで詠んで届けさせた歌2首

 たづね行く あふさか山の かひもなく おぼめくばかり 忘るべしやは

 憂きにより ひたやごもりと 思ふとも あふみのうみは うち出てを見よ

〇それに対して和泉式部が詠んだ歌2首

 関山の せきとめられぬ 涙こそ あふみのうみと ながれ出づらめ

 こころみに おのが心も こころみむ いざ都へと 来てさそひみよ

 

〇その後、和泉式部は「来てさそひみよ」と言ったのに急に石山寺を出て都へ帰ったので、敦道親王が詠んだ歌

 あさましや 法の山路に 入りさして 都の方へ 誰れさそひけむ

〇それに対して和泉式部が詠んだ歌

 山を出でて 暗き道にぞ たどり来し 今ひとたびの あふことにより

 

〇8月末頃、風雨が激しく和泉式部が物思いに沈んでいると、敦道親王から手紙があり、それに詠まれていた歌

 嘆きつつ 秋のみ空を ながむれば 雲うちさわぎ 風ぞはげしき

〇それに応えて和泉式部が詠んだ歌

 秋風は 気色吹くだに 悲しきに かき曇る日は いふかたぞなき

 

●第14段:九月二十余日

〇9月20日過ぎの有明の月の頃、敦道親王は小舎人童を連れて和泉式部のところを訪れたが、和泉式部は物思いに沈み、逢わずに寝ないで夜を明かした。夜が明けると、敦道親王から手紙が届き、そこに書かれていた歌

 秋の夜の 有明の月の 入るまでに やすらひかねて 帰りにしかな

 

●第15段:手習の文

〇(前段の)和泉式部が、逢わずに寝ないで夜を明かした時に書いた手紙を結び文にして敦道親王へ届けると、その手習文に書かれていた和泉式部が詠んだ歌4首

 秋のうちは 朽ちはてぬべし ことわりの 時雨にたれが 袖はからまし

 まどろまで あはれ幾夜に なりぬらむ ただ雁がねを 聞くわざにして

 われならぬ 人もさぞ見む 長月の 有明の月に しかじあはれは

 よそにても おなじ心に 有明の 月を見るやと たれに問はまし

 

〇届いた手習文を見て、敦道親王がすぐに和泉式部へ詠んで贈った歌5首

 秋のうちは 朽ちけるものを 人もさは わが袖とのみ 思ひけるかな 

 消えぬべき 露の命と 思はずは 久しき菊に かかりやはせぬ

 まどろまで 雲居の雁の 音を聞くは 心づからの わざにぞありける

 我ならぬ 人も有明の 空をのみ おなじ心に ながめけるかな

 よそにても 君ばかりこそ 月見めと 思ひて行きし 今朝ぞくやしき

 

●第16段:九月末、代詠

〇9月末、敦道親王から「遠くに旅立つ親しい人へ感動する歌を送りたいが、代わりに詠んでくれませんか」との依頼があり、それに応えて和泉式部が詠んだ歌2首

 惜しまるる 涙にかげは とまらなむ 心も知らず 秋は行くとも

 君をおきて いづち行くらむ われだにも 憂き世の中に しひてこそふれ

〇敦道親王がそれらの歌に満足し、和泉式部に詠んで送った歌

 うち捨てて たび行く人は さもあらば あれまたなきものと 君し思はば