第1回ババロア句会のテーマ「平易と難解」について | ハイクラヴァー

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うーん、とりあえずそんな感じで。

先ず大前提として、「俳句を書く」という行為は「俳句が読まれる」という帰結を予見していると考えられる。

いや、もちろん人の目なんて気にせずに自分のためだけにせっせと俳句を書くという人もいないことはないのかも知れないけれど、そういう人の俳句は誰の目にも触れることはないので、僕の考える「俳句」からは除外する。


話を戻す。俳句が「誰かに読まれるために書かれている」とすると、僕たちが俳句を書くとき、僕たちは「読まれるように書く」という意識を持たざるを得ない。さらに言えば「読まれる」ためには「読める」ものでなければいけない。

よって、俳句は「平易(平明)」であることが良しとされるのだけれど、その一方、何だか小難しい俳句を「良し」とする人もたくさんいるわけです。


おっと、どこかで論理が破綻している。


思うに「『読まれる』ためには『読める』ものでなければならない」というのが「偽」だったのかなと。

つまり、僕たちは「読めない」もの(もっと正確を期せば「読みきれないもの」)を読むということをある種の楽しみと感じているのではなかろうか。作者視点で言い換えれば、僕たちは「読めないものを書く」という一見矛盾に満ちた営みを楽しんでいるフシがあるんじゃないか。

(そもそも、俳句の本質的な「短さ」は、「読めないものを書く」というおかしな営みを結果的に増長させているとも言える。いや、その源と言えるかも知れない)


今回のババロア句会のテーマである「平易と難解」を通じて、「読める俳句」と「読めない俳句」、さらには「読める」「読めない」という現象の本質的な意味について考えてみたい。