平和を実現するために

 

 昭和12年、軍需産業の好景気に沸いていた日本は、中国へ侵攻する。大人から子どもまで日章旗を振っていた我々は、すぐに太平洋戦争へ突入した。その僅か4年後、昭和20年(1945)8月、日本は焦土と化した。これが戦争である。

 『句集 広島』は、原爆投下後10年にして刊行された広島の記憶である。昨年、2022年、広島の民家で500冊が発見された。その一言一句から、焦土から立ち上がった人々の気迫が、悲しみが伝わる。句集は、戦後すべてが困難だった時代に、よくこれほどまでにと思うほど丁寧に仕上げられていた。広島の願いが結実した一冊は、今を生きる私たちに訴えてくる。願いはただ、「平和のために――」である。

 「あらゆる場所で、あらゆる形で、ひとびとの『はかない努力』はくりかえされて来たし、今後もまたくりかえされなければならない。そのような捨石の累積の頂点で、すべての悲願切望は成就するのだ。」(「おわりに」より)

 広島に生き残った者の努力を「捨石」と言うその謙虚さは、戦後の彼等の歩みがどれほど困難であったかを物語っている。人間の存在の儚さ、無力さを心底味わった者の絶望であり、希望であろう。

 

 昨年は、ウクライナが戦火に覆われた年となった。美しい国土が一瞬で破壊される様は、広島と変わらない。世界中で「平和」が叫ばれていた。「平和、平和」と誰もが口にしているが、今なお、戦闘は止まない。当時の広島の現状は、ウクライナに生きていると言えないだろうか。

 

 私たちは、今一度、自身に問はねばならない。「平和、平和」と叫びながら、身近な場所で平和を作り出しているかどうかを、である。「平和、平和」と言いながら、身近に争いを生み出しているのなら、その訴えはまやかしである。正義を叫びながら、小さな正義一つすら実行できずにいるならば、それは偽善である。国家間の争いと一個人のそれは別物ではない。なぜなら、すべては一個の人間から発することだからである。

 

 権利の無い所へねじ込んで来て、自身の利益を重んじ声高に誤った主張を繰り返す。真実を見極める努力をせず、簡単に他者に迎合する。あるいは、弱者を主張し泣き叫んで我を通す、あるいは立場を利用して弱きを踏みつけにする、など。意見に耳を貸さず、一方的に相手をねじ伏せることを目的とするならば、それは「平和」実現の一歩とはなり得ない。

 平和の実現、それは個々人の資質にかかっている。それは、日々の生活と乖離するものではない。一個人が小さな正義を守り、平和のために考え、努力する。それにかかっている。そのことにどんな意味があるのかと言ってはならない。努力を止めてはならない。それこそ、『句集 広島』が言う、「捨石」だからである。「そのような捨石の累積の頂点で、すべての悲願切望は成就する」と「広島」は教えてくれている。私たちは、日々、平和のために「捨石」とならねばならない。

 今こそ、「平和とは何か」を問い直さねばならない。「平和を実現するために、何を為すべきか」、一人一人が省みるときではないかと私は考えている。

 

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是非、来てね。

 

カノン