「まちこきや しんぶんがみは つつみがみ」と読んでね♪ 「しんぶんし」ではありません。
あくまでも”紙類”としての”しんぶんがみ”なのです。もちろん、そこに何が書かれているかは
関係ありません。単なる”紙類”としての新聞紙はこれでなかなか便利な存在でして───
【画像引用:『サザエさんと長谷川町子』2018年1月1日号】
こんにちは、お久しぶりですが、本日の季語は「町子忌」(まちこき)・・・ ん? えっとォ、どの
歳時記をひも解いてもこんな季語は載ってはおりません(笑)私自身が広めたいと思って作った
季語であります。 忌日の季語とお分かり頂けると思いますが「町子」って?
女性の名前で「まちこ」と読む名前の表記は様々ですが「町子」と来れば (町子という名の
有名な方は) もうこの方しかいらっしゃらないでしょう。 そう、長谷川町子さんです♪
もはや国民的漫画(アニメ含めて)といっても良い「サザエさん」の 海の 産みの親である
漫画家さん、単なる一漫画家と呼んでしまうには余りにも大きな功績を残した方です。
日付的には遅れてしまったけれども、町子さんの忌日は五月二十七日です。町子忌、ではなく
他に適切な名前はないかと考えたけれども・・・うーん、いざ名付けようと思うとムズカシイ・・・
「サザエ忌」ではあんまりでしょ? サザエさんはまだまだ現役でテレビアニメで活躍中だし
「磯野忌」とか「フグタ忌」もピンと来ません。なので取り敢えず「町子忌」としてみました。
私は活字中毒者ではありますが、漫画も好きです♪
生まれ育った家庭に於いても、特に漫画を禁止されることもなく割りと寛容に子どもの読み物
として受け入れられてきたのではないかしら?
昭和の子どもである私の子ども時代、「サザエさん」のテレビアニメはまだ放送されていません
でした。その代わり、朝日新聞朝刊で漫画の「サザエさん」が連載されていた時代───。
私の朝は、朝日新聞の「サザエさん」を読むことからスタートしたのです♪ そうして、単行本を
買ってもらえるのを楽しみにしていたいました。はるか遠い遠い昭和の時代のことでした(笑)
「サザエさん」といえば、未だに続くアニメの影響もあり、親子三代位に知られ読まれてきた漫画
ではありますが、町子さん自身は、余り表に出ることもなくメディアにも顔を出さない方でしたので
余りその人となりを知られることはなかったのではないでしょうか? ↓晩年の町子さんです。
長谷川町子さんは大正九(1920年)佐賀県生まれ。お父様は三菱炭鉱の技師でした。幼少時に
福岡に転居、昭和九年、お父様の死去に伴い母・姉・妹と共に一家で上京、元々絵を描くのが
大好きな町子さんは、お母様のすすめで漫画家の田川水泡(当時の超人気作家@のらくろ)に
弟子入りを果たします。 ↓14歳のとき、田川水泡を訪れた時に持参したスケッチなど・・・
まあ、こう書くとすごくスムーズにいったようですが、文字通りの大黒柱であったお父様の死後は
それなりの苦しみも辛さもあったはずです。 なによりもお母様の頑張りがすごい。
お父様の代わりに家族の総司令官として長谷川家をひっぱっていったのですもの!
この辺りのいきさつが『サザエさんうちあけ話』で描かれ、『マー姉ちゃん』というタイトルで、
NHKの朝の連続テレビ小説化にもされてご覧になった方もいらっしゃると思います。
マー姉ちゃんは町子さんのお姉さんの鞠子さんのことですね。
1979年『マー姉ちゃん』より、長姉鞠子さんを主人公とし、熊谷真美が演じ、町子さんを田中裕子、
お母さん役を藤田弓子が演じました。平均視聴率42.8%、最高視聴率は49.9%! すごい。。。
「サザエさん」が生まれるまでの物語なのですが、この人気はさすがサザエさんです(笑)
さて、町子さんは弟子入りの翌年、弱冠十五歳で”天才少女漫画家”としてプロデビュー!
◆田川水泡先生がお褒めになる 少女漫画家 長谷川町子さん◆
『僕の弟子の中でもあの子はまったく天才だ。今にきっと有名な漫画家になりますよ。』
おなじみの田川水泡先生が、口をきわめてお褒めになっている少女があります。
長谷川町子さんといって、女学校四年生ですが、小さい時から絵が上手で、田川水泡先生の
お弟子になってからメキメキと漫画が上達して『とても僕なんか、かなわないよ』と先生も冗談
を仰るほどの腕前です。
引用:『少女倶楽部』昭和10年10月号より一部抜粋
── 今にきっと有名な漫画家になりますよ
今にきっと有名な漫画家になりますよ
今にきっと有名な漫画家になりますよ ──
はい、田川水泡先生、先生の予言どおりに町子さんは昭和を代表する漫画家に成長しました。
もちろん、町子さんのみならず、手塚治虫をはじめとして他にも昭和を代表する漫画家は何人
もいるとは思います。少なくとも、その中のの一人であることは誰も否定できないと思うな。
昭和10年のデビュー以来、画業そのものは順調といえたでしょうが、昭和12年に日中戦争が始まり
子ども向けの漫画といえども、内務省からの干渉や検閲が厳しくなってきます。
そんな制約の増えた中でも、町子さんの描く漫画の登場人物は明るくて活発、元気な子ども♪
しかし、戦況が悪化する昭和18年以降は雑誌の休刊も相次ぎ、そんな状況の中で町子さんが
活路を求めたのはデザインやイラストのお仕事です。特に便箋の表紙やカットなど、現代でも
通用するセンスの良さには驚かされます。 とってもモダンなんだよね♪
”鬼畜米英!”の時代に、こんな洋風感覚で大丈夫?と思ったのですが、これはアメリカや
イギリスではなく、同盟国であるドイツやイタリアをイメージしているのでOKになったとか(笑)
しかし、昭和19年に入ると戦況は益々悪化、一家で福岡に疎開することになりました。
町子さんはそれまでのキャリアを生かし、西日本新聞社に入社、編集局絵画係りで働くことに・・・。
この時代に町子さんが手がけたイラストや軍需工場の挿し絵入りのルポなどが最近になって
発見されていますが、暗い戦時下であっても町子さんの絵は明るくお茶目なんだよね♪
そうして福岡で終戦を迎え、いったん西日本新聞を退社し、夕刊紙の「夕刊フクニチ」紙上で
いよいよ『サザエさん』の連載がスタート! 待ってましたあ~~っ!!
主人公は、元気なおてんば娘♪というイメージが出来ていましたが、その名前は愛読していた
志賀直哉の『赤西蠣太』(あかにし かきた)に登場する御殿女中「小江」(さざえ)からとり、
磯野家の家族の名前なども全て、当時毎日のように散歩していた百道海岸からインスピレーション
を得て海にちなむ名前に決めたそうです。 このとき町子さんは26歳でサザエさんも独身でした。
明るく楽しい家庭漫画である『サザエさん』は人気は出たものの、町子さんの目はやはり首都に
向けられていました。まだこの時代、漫画家としての活躍の場が与えられるのは東京だったのね。
連載を終了させるために、町子さんはサザエさんを何度も東京へ様子見に出張?させています。
その後の詳細はもう省きますが、この後も順調にサザエさんは続きます。 漫画の中で
サザエさんは結婚し、福岡の磯野家の人々も東京に引越しする形にして、夕刊フクニチでの再開
そうして朝日の夕刊へとステージを移し、昭和24年からは朝日の朝刊という最もメジャーな場所に
お引越し。 出世魚のごとく、「サザエさん」の人気は全国区になったと言えるでしょう。
『サザエさん』を出版するため、お姉さんの鞠子さんをTOPとして立ち上げたのが姉妹社です。
ちなみにこのネーミングはお母様によるものだとか・・・↑上の写真の頃には業績も一段落して
落ち着いて来た頃ではなかったでしょうか?
当初はサザエさん夫婦は磯野家とは別の借家に住んでいました。
しかし、戦後の住宅難の折から、大家さんから明け渡しを命じられたサザエさん夫婦とタラちゃんは
一家で磯野家に同居することになります。 そうして、このスタイルがずうっと連載の終わるまで
続くことになるのですね。養子ではないけれど、娘夫婦と同居という新しい家族の形で───
私たちにとっても馴染み深いサザエさんの光景はここから始まるとも言えるでしょうね。
─── それは懐かしい昭和の風景でもあります。 戦後間もない20年代、30年代、そして
40年代・・・インターネットもスマホもない社会です。 けれども何の不自由も感じませんでした。
【2018年1月1日朝日新聞・新年特集ページに掲載の磯野家の人々とサザエさん】
さて、長谷川町子さんの連載は昭和49年2月21日まで続きました。
予告して連載が終了するという形ではなく、静かに消えていったという感じかな?
余りにもさりげなかったので、再びスタートするのかな?という期待もあったのですがネ。
それまでにも何度も休載が続いていたし・・・けれども体力的にも限界だったのかなあ?
もちろん、連載が終わってからも画業としての創作活動は続けておられました。
不定期でのエッセイ漫画や、かねてからの念願であった絵本などもマイペースで楽しみつつ
出版されていたのではないかしら? 明るいポップな絵柄は町子さんの魂の明るさだと思うわ!
その後、昭和57年紫綬褒章受賞。平成三年、日本漫画協会賞・文部大臣賞受賞。
翌年5月27日冠動脈硬化症による心不全で死去───
同年七月、国民栄誉賞を受賞されました。でもお元気なうちに・・・と思ったのは私だけかな?
大好きなサザエさんとその作者である長谷川町子さんをしのび、その忌日をオリジナルの季語
として詠んでみました。まあ、あまり感心したことではないのですけど(冷や汗)
過ぎ去ったけれども懐かしい昭和の時代、新聞紙がそのまま便利な包み紙であった時代でも
ありますし、サザエさんの漫画が連載されていたのも新聞紙上でしたしね。 まあ、昭和の
雰囲気とからめて詠んでみたかったのです。他に、黒電話なんかもいいですよね───
【画像引用:週刊朝日臨時増刊号 サザエさん 2021年春号】
町子忌や誰もとらない黒電話 灰色の猫
今では「サザエさん」といえば漫画よりもアニメのほうが馴染み深くなってしまったけれど
少々形を変えても、忘れられてしまうより、生き残っていくほうが嬉しいと思います。
だって、(サザエさんはフグ田姓だけれど)サザエさんと磯野家ファミリーのことは日本中の
人にとってももうお馴染みのファミリーだもんね♪
私はアニメではなく漫画派ですが、それでも読み返すたびに新たな発見があるのです。
戦後間もない時代からスタートして、いま読んでも面白い。まんま庶民の生活史になってる♪
【画像引用:『サライ』1991年11月7日号】
彼らは創造上のキャラクタではあるけれど、間違いなく私たちの隣人として生きている。
日本の庶民の戦後史そのものを生きたサザエさんと磯野家ファミリーは永遠です。
彼らの時間は止まったままで、年をとることもなく、サザエさんは永遠に二十代の主婦のまま♪
そうして、私たちの心に永遠に生き続ける───
サザエさん、フォーエバー! 磯野家ファミリーよ、永遠に!
そうして、長谷川町子さん、たぐいまれなる画力とセンスと才能、そして、たゆまぬ努力で
『サザエさん』はじめ数々の作品で 私たちを楽しませてくれてありがとう!!
【画像引用:別冊太陽 長谷川町子昭和を描いた国民的漫画家 】
磯野家と検索してみよ町子の忌 灰色の猫
それでは今日はこの辺で・・・最後までお読み頂きありがとうございました。
新型コロナ、明るい見通しがなく、まだ混沌としている状況ですが、体調にはくれぐれも
お気を付け下さい。最もシンプルな予防策、うがい・手洗い忘れずにネ!
そうして、お互いに心してこのコロナ禍時代を生き抜きましょう!
追伸:実は、サザエさんの記事はまだ続くのですが、文字数オーバーでアップできませんでした。
なので、次回(6/1か6/2頃に)に残りを<おまけ>の形でアップする予定です。
どうぞ宜しくお願い致します。