いってみようかしら? そう、軽やかに歩いてみたいのです。 (しかし、その割に記事は長いっす!)
こんにちは、本日は久しぶりのカテゴリ” Favarit 詩歌”です。お気に入りの詩なの。
↑この詩はとても分かりやすく趣旨も明瞭ですから、このまま言わんとすることがすうっと伝わ
ると思います。特に暗記しようとした詩ではないのですが自然と頭に入り覚えてしまいました。
「見なれた平凡なごくつまらぬことが ふっと光彩をはなつて心を打つ時は、」
── 実は、俳句が詠めるのもこんな瞬間なの。
心にいっぱいになった気持ちを言葉に解き放ち、季語に託して詠むのは快感です。
── 私たちの日常の中で見つけることの出来る小さな幸福と満足感・・・。
何でもない一日であっても、その日が特別な日に生まれ変わるのです。
ただ、この作者を御存知の方にとっては、ちょっと意外に思われる詩かもしれませんね。
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さて、突然ですが・・・あなたが本屋さんで或る雑誌を手に取ったとしてみましょう。
中にひとつの原稿(評論でも論文でもOK)があり、あなたはそれを読んで非常に気に入りまし
た。作者は名前から異性と分かりますが写真も年齢も不明です。この原稿を書いた人が大いに
気にいったあなたは次に何をするでしょうか。
出版社宛にファンレターを出す? もしあれば雑誌のアンケートに答え、この人を褒める?
もしくは公式ブログやHP、ツィッターやフェイスブック等のSNSが無いか検索をかけるとか
でもねえ、いきなり結婚を申し込むことは無いよねえ? 普通、そんなことはしないよね。
ところが、それをした人がいるんですよ ─── この生田春月サンは (爆
本日の Favorite 詩の作者は生田春月(いくた しゅんげつ 1892~1930)
本名は生田清平、明治25年に米子市で生まれました。10歳頃から詩作を始めましたが、酒造業を
営む生家が破産して高等小学校を中退。一家は各地を転々とする生活でした。春月も米穀商の
下働きや給仕の仕事を務めながら自活、その間も詩作はやめなかったとか・・・
その後、17歳で単身上京。同郷の先輩で作家・評論家の生田長江(平塚雷鳥の『青鞜』名付け親)
宅の書生として住み込み文学修業に励みます。独逸語専修学校の夜学でドイツ語を修め、独学で
英語や国文学を学ぶ努力家でもありました。(同時期に佐藤春夫も書生として生田家に寄寓)
大正6年と7年には詩集『霊魂の秋』『感傷の春』で詩人としての地位も確立させ、傍らハイネ
ツルゲーネフ、またゴーリキーの作品群も紹介するなどの多才ぶりを発揮します。
そんな新進詩人の結婚は──
お相手は西崎花世/生田花世(1888~1970)『青鞜』の同人でした。
徳島県生まれで生家は代々村長を務めた家であり、祖父は和歌や俳句を嗜む風流人であり父親も
漢詩を作るなどの文人肌の家庭でした。長女として生まれた花世は徳島県に初めて創立された県
立女学校に入学、トップの成績を収めた優等生でした。
当時としては、とても恵まれた家庭で育った花世ではありましたが、彼女なりにコンプレックスも
ありました。それは容姿と身長・・・。けれど、写真で見る限りはそんな劣等感を持つようには
見えないのですが?ただ、身長については、平均身長が150㎝そこそこの明治の人であっても
飛び抜けて低かったようです。後に教員として教壇に立つと机の高さが胸まであったとか・・・
後に上京後、知人の世話になりながら教員生活。そうして博文館の記者へとステップアップを
して行くのですが、女性として恋も知らずに生きていく自分のことをフィクションも交えて書いた
原稿が『青鞜』に掲載されたのが大正3年の事でした。タイトルは「恋愛及び生活難に対して」
「青鞜」に発表された花世の原稿を読み、いたく心を動かされたのが春月です。
読むやいなや「自分が結婚するのはこの女性しかいない!」と天啓が閃いたのでしょうか?
どうしても結婚したいと河合酔茗(詩人・編集者)に頼み込みます。
驚いたのは花世でしょうね (ー△ー;)エッ、マジ?!!!
会ったこともない、自分より4歳年下のハンサムな新進詩人から求婚されたのですもの。
当初は、どうしても信じられずに辞退、改めて心境を「青鞜」に載せました。
それを読んだ春月はまたまた感激、花世を絶賛する一文を「新潮」に寄稿します。
花世は当座は辞退したものの、改めて春月との見合いに応じることに・・・。
そうして、その場で結婚に同意してしまいます。 そうして、その年の内に結婚。
うーむ・・・としか言いようがないのですが (・へ・;;)ウーム・・・・ イイノカ? ソレデ・・・
真面目で恋に免疫のない女性にとっては、春月の熱烈な求婚は生涯に一度のチャンスと思った
のでしょうか。見合い後に春月から届くラブレターも彼女の心を満足させたかもしれません。
─── 二人の結婚生活は、昭和5年まで続きました。
昭和5年の5月19日 春月が 大阪発、別府行きの船菫丸に乗船中、瀬戸内海播磨灘で投身自殺
を遂げるまでは・・・。二人の結婚や生田花世についてもっと知りたければ こちらが詳しいかな↓
↑1987年、平林たい子文学賞を受賞した名評伝です。熱烈にプロポーズしてくれた夫は他の女性に
対しても大いなる熱意を示す男性だったようですね。結婚生活は・・・まあ、言わぬが花。
ただ、花世は読売新聞の記者になり家計を支え、春月の詩作の上で有能な助手でもありました。
春月は、当時の風潮であった刹那主義という思想性を女性に対して実行していったのかしら?
当初はキリスト教的な人道主義思想、その後はニーチェや大杉栄の影響を受けてニヒリズムの
傾向を強めていったとされていますが・・・それが女性関係に反映されたのでしょうか。
ただ、彼は、奔放な生活を詩作の上での肥やしにしたとは思えません。そういうタイプじゃない。
「つねに純真誠実な生き方を求め、その真情の告白が詩風の特色であり、生涯であった」と
榎本隆司氏(早稲田大学名誉教授)は評しています。
もちろん、私自身も春月の文学的な功績は評価したいのです。
夫としてはサイテーであってもね ゚o。o゚(+-_-)...。oо○サイテージャン゚o。o゚
しかし、春月は翻訳者としてハイネの詩を日本人に広く親しまれるきっかけを作りました。
彼の翻訳によって『ハイネ全集』全3巻が発刊されたのが大正14年ですが、恋愛詩人としてだ
けではなく、社会派詩人・革命詩人としてのハイネの一面を捉えたことは重要でその功績は非常
に大きいといえますね。
ただ、個人的には、傾倒・翻訳したハイネの影響をストレートに受け過ぎて本来の持ち味が出せ
なかったような、そんな気がしてなりません。こんな言い方はファンの方には申し訳ないし、私も
それほどの見識も無いのですが・・・。
そうして、春月にはこういった詩もあるんですよ↓
【表記について:読みやすくするために改行を入れましたが、正確には改行は無しで書かれています】
「目あたらしい文字や 妙な言ひまわしをして わけの分らない詩ばかりだ、」
「もっと素直な もっと単純な」
・・・この部分、私は座右の銘にしたいほどです。エセ芸術家気取りの連中にも (以下省略)
あなたが春月のことを御存知の確率は半々といったところでしょうか。
教科書に名前が出たり作品が掲載されるようなタイプの詩人ではないのですけれど・・・
或る時代に、或る役割を果たした・功績があった詩人といっても良いかもしれません。
享年38歳。やはり早すぎた死であり、詩人としてはまだまだ可能性を秘めていたのでは、と
私は考えています。詩人として、完全に成熟する一歩手前で世を去ってしまったのが惜しまれて
なりません。(異論は認めますが、まだ変貌する余地はあったと思うのです)
ああ、また今日も長くなってしまいました。余り馴染のない詩人だったかもしれませんが・・・
最後まで読んで頂き深く感謝。ぁりがと━━゚+。゚+。(*´>艸<`*)゚+。゚+。━━ぅ!!!
それでは、最後に・・・新宿区多聞院の歌碑の詩を一編あげて今日は終わりましょうね。
この詩も、上に挙げた「或る時」と共通するものがあります。
【表記について:「ヴレリィ」と書きましたが、ヴではなく正確には「ワ」に点です】
それでは、今日はこの辺で・・・またね。

