本日の Favorite 短歌 [ 髪ながき少女とうまれ白百合に額は伏せつつ君をこそ思へ ] | 俳句でDiary ─ できるかな?

俳句でDiary ─ できるかな?

私の俳句 萌え萌え日記

これまでにお気に入り俳句・詩歌・和歌を紹介して来ましたが、昨日やっと気が付いたことがw

そう、お気に入りの「短歌」カテゴリが無かったんですね! 今さらながらではありますが・・・

さて、本日の Favorite短歌として挙げたのは山川登美子(1879~1909)の歌です。この名前に

ピンと来るかな? 短歌のお好きな方ならば、よく御存知の福井県出身の歌人です。


そうして、与謝野晶子&鉄幹とは非常に縁の深い歌人でもありました。・・・彼女の事は↓

※5/12   ( ^ー゜)σ  恋心ひととき花を揺らす風揺れし想ひの追ふもできずに  

↑後半に渡辺淳一氏の『君も雛罌粟(コクリコ)我も雛罌粟(コクリコ)』 の紹介をしましたが

その中で与謝野晶子の恋のライバルとして”山川登美子”の名を上げましたが詳細はパス・・・

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*


俳句の夏の季語に「百合」があります。万葉以来、数々の歌や句に詠まれてきた百合・・・

その中でも特に好もしいのが”白百合”。この百合の花の佳句や秀歌に何が有ったかをいろいろ

と考えてみると・・・やはりこの歌に尽きるのです。

明星

【 「明星」です。 何という大胆にして斬新な表紙絵でしょうか】



与謝野晶子の歌が華々しく「明星」を飾った同じ頃に、競うように誌面を飾った山川登美子。

29歳の若さで夭折したせいもあり、晶子の影になってしまったのが寂しいような気もしますが

彼女は、与謝野鉄幹&晶子とは深い繋がりと縁のあった女性歌人でした。

登美子も晶子も鉄幹と出合った事により、恋を知り歌の才能が花開いたのですから。



以下、彼女の生涯を辿ってみますので、興味のある方は読んでみてね。

己の心を、ほとばしる様に謳い上げた晶子に比べると、抑制された登美子の歌は現代の私たちに

とっては地味に感じられるかもしれませんが、それ故に想いの深さを感じ取る事も出来るので。



■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■

     髪ながき少女とうまれ白百合に

              額は伏せつつ君をこそ思へ      山川登美子



   かみながき  おとめと うまれ  しろゆりに  ぬかはふせつつ  きみをこそおもへ

■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■

白百合に象徴される純潔さを守り抜きたい気持ちと、「君」・・・特定の男性、ここでは鉄幹

への恋心とが、額づいて祈るような気持ちで表現された美しい歌です。


山川登美子2    山川登美子3

【山川一族の家族写真】                【17歳当時の登美子】



山川登美子は明治12年、福井県の若狭小浜(小浜市)に生まれました。実家は代々小浜藩主の

酒井家に側用人御目付役として仕えた士族の家柄であり、廃藩置県後に出来た銀行の頭取を務め

た裕福な家で、両親の愛情を受け才色兼備の良家の子女として育ちました。 


当時としては相当リベラルな家庭でもあったのでしょうね。大阪のミッションスクール梅花女学校

に進学し、卒業後は母校の研究生として英語を専修。 明治の女性としては、充分以上に恵まれ

た育ちと教養の持ち主だったのでしょう。歌はあくまでも嗜み程度にして良家に嫁ぎ、平凡な良き

妻としての生涯を過ごしても不思議ではなかったはず。

山川登美子8

【 鉄幹に添削された登美子の歌稿  達筆ですね 】



明治33年、与謝野鉄幹の「明星」に投稿した歌が載り、同年の夏に運命とも言える出来事があり

ました。 来阪した与謝野鉄幹と大阪在住の鳳晶子(後の与謝野晶子)との出会い・・・

この出会いが登美子にとって幸福だったのか不幸だったのか、分かりません。


新詩体の煌くスターのような存在であった鉄幹に魅せられた登美子、そして晶子も・・・

ジャーナリスティックなセンスを持っていた鉄幹は、積極的に「明星」に女性の歌を掲載。

そうして、ここから彼女たちの歌の才能が花開いて行きます。


あたらしくひらきましたる歌の道に君が名よびて死なむとぞ思ふ   登美子


「明星」の双璧ともいえる二人の女性を鉄幹は、こう呼びました。

登美子を「白百合の君」、そして晶子を「白萩の君」と・・・


登美子も晶子も、歌の師として以上に鉄幹を慕い当時の「明星」はまさに公開ラブレター状態

といっても良いかも? まるで恋の三角関係? けれど、登美子は1歳年上の晶子を「お姉さま」

と呼んで慕い、尊敬もしていたそうです。


登美子と晶子


(しかし、この三人の関係が後にスキャンダルとして鉄幹を襲うのですが・・・)


やがて、登美子に縁談が起こり当時の若い娘として断りようもなく、嫁ぐことになります。

その頃にはもう、晶子の鉄幹に寄せる恋心も充分に分かっていましたしね。

お相手の男性は、同じ一族の山川駐一郎氏、海外勤務の経験もあるエリートでした。


■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■

     それとなく紅き花みな友にゆづり

           そむきて泣きて忘れ草摘む     登美子


■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■


この「紅き花」が誰を意味するか、もう分かるよね? このとき、登美子は22歳でした。

しかし、登美子は古いタイプの、なよなよとした弱いだけの女性ではありません。

毅然として、おのれ自身の恋心に決別したのではないかしら?


■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■

     わが息を芙蓉の風にたとへますな

              十三絃をひと息に切る       登美子

■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■


思わず息を呑むほどの強靭な意志の表れた歌です。

(琴の)十三絃をひと息に切る・・・決然たる凄みさえ感じられる好きな歌です。


山川登美子4     山川登美子



■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■

  岩にあてて小百合の花をうち砕き 

            此世かくぞと知り初めし今日    登美子
 


■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■

うわあ、この歌は・・・私自身は登美子の結婚そのものが必ずしも不幸とは思いませんが

・・・なにか非常に無残な歌ですね。


*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

しかし、結婚生活は二年ほどで、夫の結核による病死で断ち切られてしまいました。

25歳で未亡人となった登美子は、鉄幹の勧めもあり心機一転、東京の日本女子大学英文科予備科

に入学。そうして再び鉄幹との交際がスタート、妻となった晶子を悩ませる事になったのですが・・・。


やがて、「明星」から晶子・登美子、他の同人との三人の合同詩集「恋衣」が刊行され、世には

好意的に迎えられたのですが、しかし、この歌集が思わぬ波紋を呼ぶことに・・・

恋衣



実は、「恋衣」の中には晶子の、世間からは非難された『君死にたまふこと勿れ』が編入されて

いたのです。そのため、登美子は入学した日本女子大学の休学処分を受けてしまいます。

さらに不幸なことには、夫から感染した結核が彼女の身体を蝕め初め、大学を中退せざるを得な

くなってしまいました。


療養の為に故郷に帰った登美子ですが、29歳の時には父に死なれ、さらに可愛がっていた姪にも

先立たれてしまいます。また、自身が心の拠り所にしていた「明星」も廃刊に・・・


■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■

   いかならむ遠きむくいか にくしみか

              生まれて幸に折らむ指なき      登美子


■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


絶望と無常観・・・死を見つめる日々の中で、何を考え何を凝視していたのでしょうか。

最後は実家の奥座敷でひっそりと息を引き取った登美子・・・。



山川登美子5     山川登美子7

【登美子の生家・現在は記念館に】       【山川家墓所の登美子の墓】


随分と長くなってしまいましたね。それでは、最後に登美子の辞世の歌を載せて今日はおしまい。


父君に召されていなむ とこしへの春あたたかき蓬来のしま   山川登美子

1909年明治42年4月15日 死去 29歳9ヶ月 法名 登照院妙美大姉

山川登美子6



<おまけ>

山川登美子の評伝としては、一番優れているのではと思われるのが、同じ福井県出身である

津村節子氏(故吉村昭氏の奥様)の『白百合の崖(きし)』でしょうか。図書館等にも蔵書は

有ると思います。もしくは『津村節子自選作品集(2) 』に収められています。