そう、お気に入りの「短歌」カテゴリが無かったんですね! 今さらながらではありますが・・・
さて、本日の Favorite短歌として挙げたのは山川登美子(1879~1909)の歌です。この名前に
ピンと来るかな? 短歌のお好きな方ならば、よく御存知の福井県出身の歌人です。
そうして、与謝野晶子&鉄幹とは非常に縁の深い歌人でもありました。・・・彼女の事は↓
※5/12 ( ^ー゜)σ 恋心ひととき花を揺らす風揺れし想ひの追ふもできずに
↑後半に渡辺淳一氏の『君も雛罌粟(コクリコ)我も雛罌粟(コクリコ)』 の紹介をしましたが
その中で与謝野晶子の恋のライバルとして”山川登美子”の名を上げましたが詳細はパス・・・
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俳句の夏の季語に「百合」があります。万葉以来、数々の歌や句に詠まれてきた百合・・・
その中でも特に好もしいのが”白百合”。この百合の花の佳句や秀歌に何が有ったかをいろいろ
と考えてみると・・・やはりこの歌に尽きるのです。
【 「明星」です。 何という大胆にして斬新な表紙絵でしょうか】
与謝野晶子の歌が華々しく「明星」を飾った同じ頃に、競うように誌面を飾った山川登美子。
29歳の若さで夭折したせいもあり、晶子の影になってしまったのが寂しいような気もしますが
彼女は、与謝野鉄幹&晶子とは深い繋がりと縁のあった女性歌人でした。
登美子も晶子も鉄幹と出合った事により、恋を知り歌の才能が花開いたのですから。
以下、彼女の生涯を辿ってみますので、興味のある方は読んでみてね。
己の心を、ほとばしる様に謳い上げた晶子に比べると、抑制された登美子の歌は現代の私たちに
とっては地味に感じられるかもしれませんが、それ故に想いの深さを感じ取る事も出来るので。
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髪ながき少女とうまれ白百合に
額は伏せつつ君をこそ思へ 山川登美子
かみながき おとめと うまれ しろゆりに ぬかはふせつつ きみをこそおもへ
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白百合に象徴される純潔さを守り抜きたい気持ちと、「君」・・・特定の男性、ここでは鉄幹
への恋心とが、額づいて祈るような気持ちで表現された美しい歌です。
【山川一族の家族写真】 【17歳当時の登美子】
山川登美子は明治12年、福井県の若狭小浜(小浜市)に生まれました。実家は代々小浜藩主の
酒井家に側用人御目付役として仕えた士族の家柄であり、廃藩置県後に出来た銀行の頭取を務め
た裕福な家で、両親の愛情を受け才色兼備の良家の子女として育ちました。
当時としては相当リベラルな家庭でもあったのでしょうね。大阪のミッションスクール梅花女学校
に進学し、卒業後は母校の研究生として英語を専修。 明治の女性としては、充分以上に恵まれ
た育ちと教養の持ち主だったのでしょう。歌はあくまでも嗜み程度にして良家に嫁ぎ、平凡な良き
妻としての生涯を過ごしても不思議ではなかったはず。
【 鉄幹に添削された登美子の歌稿 達筆ですね 】
明治33年、与謝野鉄幹の「明星」に投稿した歌が載り、同年の夏に運命とも言える出来事があり
ました。 来阪した与謝野鉄幹と大阪在住の鳳晶子(後の与謝野晶子)との出会い・・・
この出会いが登美子にとって幸福だったのか不幸だったのか、分かりません。
新詩体の煌くスターのような存在であった鉄幹に魅せられた登美子、そして晶子も・・・
ジャーナリスティックなセンスを持っていた鉄幹は、積極的に「明星」に女性の歌を掲載。
そうして、ここから彼女たちの歌の才能が花開いて行きます。
あたらしくひらきましたる歌の道に君が名よびて死なむとぞ思ふ 登美子
「明星」の双璧ともいえる二人の女性を鉄幹は、こう呼びました。
登美子を「白百合の君」、そして晶子を「白萩の君」と・・・
登美子も晶子も、歌の師として以上に鉄幹を慕い当時の「明星」はまさに公開ラブレター状態
といっても良いかも? まるで恋の三角関係? けれど、登美子は1歳年上の晶子を「お姉さま」
と呼んで慕い、尊敬もしていたそうです。
(しかし、この三人の関係が後にスキャンダルとして鉄幹を襲うのですが・・・)
やがて、登美子に縁談が起こり当時の若い娘として断りようもなく、嫁ぐことになります。
その頃にはもう、晶子の鉄幹に寄せる恋心も充分に分かっていましたしね。
お相手の男性は、同じ一族の山川駐一郎氏、海外勤務の経験もあるエリートでした。
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それとなく紅き花みな友にゆづり
そむきて泣きて忘れ草摘む 登美子
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この「紅き花」が誰を意味するか、もう分かるよね? このとき、登美子は22歳でした。
しかし、登美子は古いタイプの、なよなよとした弱いだけの女性ではありません。
毅然として、おのれ自身の恋心に決別したのではないかしら?
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わが息を芙蓉の風にたとへますな
十三絃をひと息に切る 登美子
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思わず息を呑むほどの強靭な意志の表れた歌です。
(琴の)十三絃をひと息に切る・・・決然たる凄みさえ感じられる好きな歌です。
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岩にあてて小百合の花をうち砕き
此世かくぞと知り初めし今日 登美子
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うわあ、この歌は・・・私自身は登美子の結婚そのものが必ずしも不幸とは思いませんが
・・・なにか非常に無残な歌ですね。
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しかし、結婚生活は二年ほどで、夫の結核による病死で断ち切られてしまいました。
25歳で未亡人となった登美子は、鉄幹の勧めもあり心機一転、東京の日本女子大学英文科予備科
に入学。そうして再び鉄幹との交際がスタート、妻となった晶子を悩ませる事になったのですが・・・。
やがて、「明星」から晶子・登美子、他の同人との三人の合同詩集「恋衣」が刊行され、世には
好意的に迎えられたのですが、しかし、この歌集が思わぬ波紋を呼ぶことに・・・
実は、「恋衣」の中には晶子の、世間からは非難された『君死にたまふこと勿れ』が編入されて
いたのです。そのため、登美子は入学した日本女子大学の休学処分を受けてしまいます。
さらに不幸なことには、夫から感染した結核が彼女の身体を蝕め初め、大学を中退せざるを得な
くなってしまいました。
療養の為に故郷に帰った登美子ですが、29歳の時には父に死なれ、さらに可愛がっていた姪にも
先立たれてしまいます。また、自身が心の拠り所にしていた「明星」も廃刊に・・・
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いかならむ遠きむくいか にくしみか
生まれて幸に折らむ指なき 登美子
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絶望と無常観・・・死を見つめる日々の中で、何を考え何を凝視していたのでしょうか。
最後は実家の奥座敷でひっそりと息を引き取った登美子・・・。
【登美子の生家・現在は記念館に】 【山川家墓所の登美子の墓】
随分と長くなってしまいましたね。それでは、最後に登美子の辞世の歌を載せて今日はおしまい。
父君に召されていなむ とこしへの春あたたかき蓬来のしま 山川登美子
1909年明治42年4月15日 死去 29歳9ヶ月 法名 登照院妙美大姉
<おまけ>
山川登美子の評伝としては、一番優れているのではと思われるのが、同じ福井県出身である
津村節子氏(故吉村昭氏の奥様)の『白百合の崖(きし)』でしょうか。図書館等にも蔵書は
有ると思います。もしくは『津村節子自選作品集(2) 』に収められています。