「何であんたまで来るのよ」
優羽にギロリと睨まれて、ジヨンはヘラっと笑った。
「可愛い弟と妹の一大事だよ。ほっとけないじゃん」
「気持ちはわかるけど、あんたが出てくるとややこしくなるのよ」
優羽はそう言って溜め息を吐いた。あまり好ましくはない反応だが、気にしない。歓迎されないことはわかっていた。それでも来たのは、スンリと美緒は勿論、優羽のことも心配だったからだ。スンリと美緒のことを優羽に一人で抱え込ませたくはなかった。
「美緒はまだ混乱してるから、余計なことを言ったりやったりしないでね?」
「わかってるよ♪」
そんな会話を交わしながら、上階に向かうエレベーターを待つ。
やがて、上の階からエレベーターが降りて来て、扉が開いた。
中にはスンリが一人で立っていた。
「スンリ!」
ジヨンと優羽は、二人同時に声をあげた。真っ赤に腫れたスンリの目からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちている。
「どうした?何かあったのか?」
「な、何でもない…」
「何でもないって顔じゃないだろ」
スンリは、ジヨンたちの姿を見て、慌てて涙を拭った。しかし、その程度のことでは誤魔化しきれない程に、様子がおかしい。
「ごめん…。俺、帰るから…。ミオをよろしく」
「あ、おい…」
ジヨンはすぐにスンリを追いかけようとした。でも、優羽のことも気になって、走り出す前に振り返る。
優羽は不安そうな顔でジヨンを見ていた。
「ジヨン…、どうしよう。何かあったのかしら…」
心細そうな優羽をジヨンは、放ってはおけなかった。
「大丈夫。一緒に様子を見に行こう」
スンリの涙も気になったが、スンリの為にも、今は自分が、美緒と優羽を支えてやるべきだ。
そう判断して、ジヨンは優羽と共に、優羽の部屋に向かった。
美緒は、ソファーの上で、膝を抱えて泣いていた。
「美緒!」
ジヨンと優羽は、慌てて美緒に駆け寄る。
「美緒?どうしたの?あいつに何かされた?」
優羽が美緒の隣に座り、背中にそっと触れながら言った。
「キ、キス…された…」
泣きながら、か細い声で美緒が言ったのを聞いて、優羽の眉がつり上がる。
「あいつ…」
「待って、優羽ちゃん。悪いのは私なの!多分、そうなの!」
「そんなわけないでしょ!」
美緒に対して、少し過保護なところがある優羽は、すっかり頭に血がのぼってしまっている。
これでは、冷静に話など出来まい。
そう判断したジヨンは、美緒の前に膝をつき、下から美緒を見上げるようにして、優しく尋ねた。
「ミオは、キスがイヤだったの?」
「……わ、わからない」
震える声で美緒が答える。止まりかけていた涙が、再びこぼれ落ちる。
「わからないの。覚えてないのに、スンリとキスするのは初めてなのに…初めてじゃない…。何だか、知ってる気がして…自分が自分じゃないみたいで…わからない、わからないよ…」
「ミオ…」
当然だ。あんなに愛し合っていたのだから、そんなに簡単に全てが消えてしまうはずがない。美緒の身体には、スンリの刻んだ記憶が、しっかりと残っていたのだろう。
しかし、身に覚えのない記憶に恐怖を覚えるのも、無理はない。美緒は、誰彼構わず身体を許すタイプではないから尚更だ。きっと、スンリ以外には、それほど男を知らないはず。ひょっとすると、スンリの愛撫によって、美緒は、まだ知らない新しい自分を見てしまったのかもしれない。
「スンリ、泣いてた…。あんな顔、見たくないのに…。でも、私…怖い」
「ミオ…」
今の美緒にとって、スンリはどんな存在なのだろう。
テレビを通して知っている芸能人?遠い世界の人?出会ったばかりのよく知らない男?嫌いではないが、まだ、好きでもない人?
そんな男にキスをされて、身体が反応してしまったのだとしたら。身体がそれ以上を求めているのだとしたら。
美緒は、自分を嫌悪するだろう。そこで簡単に身体を開けるような女の子なら、ジヨンはスンリから美緒を引き離していた。
(本能のままに求め合えば、きっとわかるのに。お互いがお互いにとって、どんな存在かってこと…)
ジヨンならきっとそうする。だけど、みんながみんな自分のように生きている訳じゃないと、今は分かる。
記憶を失った美緒に、スンリの気持ちに応えてやって欲しいと、身体の感じた欲望に正直に抱かれてやって欲しいと願うのは、身売りを要求するようなものなのかもしれない。
だけど、ジヨンは知っている。
美緒にとってスンリは、ただの芸能人なんかじゃないし、遠い世界の人などではない。今は忘れていても、知らない男などではないし、例え記憶が戻らなくても、きっとまた好きになる。
知っているから、何とかしてやりたかった。
「ユウ」
「…………?」
「これは浮気じゃないから、怒るなよ」
ジヨンは、側で見ている恋人に、そう宣言して、美緒の頬に、そっと手を添えた。
「ミオ、スンリにふれられて、どんなかんじした?」
「え…?」
「キモチよかった?」
「そ、そんな…!」
「じゃあ、キモチわるい?」
「……………」
美緒は、何も言わなかった。やはり、感じたのだろう。だから、驚いて拒絶してしまった。
「じゃあ、これは、どうおもう?」
「え…?」
ジヨンは、戸惑っている美緒の隙をついて、ミオの耳朶を軽く噛んだ。そのまま、首筋に舌を這わせ、同時に、扇情的な手付きで、太股を撫でる。
「い、いやっ…!」
美緒は悲鳴を上げて、ジヨンを突き飛ばした。それほど力は入れていなかったので、ジヨンの身体は、簡単に突き飛ばされる。
ジヨンは、美緒のその反応に安心して、笑顔を浮かべた。
「キモチわるいデショ?」
「……………っ!」
ジヨンの言葉に、美緒ははっとしているようだった。多分、自分でも気が付いたのだ。
「スンリにされたのと、ちがうデショ?」
「………………」
違うはずだ。違って当たり前なのだ。
「ねぇ、ミオ。まえにも同じことあったよ。おれ、ミオとスンリがアソビだとおもったから、ミオにひどいことした。けど、ミオは、スンリしか見てなかったよ」
美緒は、ジヨンの誘惑に揺れなかった。スンリが紹介してくれた女の子で、ジヨンの仕掛けた罠にかからなかったのは、美緒が初めてだった。記憶を失っても、それは変わっていない。
ジヨンは優しく微笑んで、美緒に語りかけた。
「ダイジョウブ。こわくないよ。ミオは、だれでもいいんじゃない。スンリだから、キモチよかったんだよ」
「私…」
美緒が、ポロポロと涙を流す。ジヨンは美緒の頭をそっと撫でながら言った。
「スンリの家、いく?」
「……………」
「送って行くよ」
もう一度、スンリと二人きりになるのは、美緒にとって、恐ろしいことだろう。それでも、美緒は、頷いてくれた。切れかかった赤い糸を手繰り寄せることを選んでくれた。
ジヨンは、嬉しくなって微笑んだ。
「ありがとう。ミオ。ありがとう」
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それから、ジヨンは美緒を連れてスンリのマンションに向かった。心配そうにしていたので、優羽も一緒だ。
スンリは、まだ部屋に戻っていないようだった。
『フラれたと思って、別の女の子のところに行っちゃったのかもしれないよ』
ジヨンは美緒の決意を確かめる為に、わざとそんな意地悪を言った。それでも、美緒は、待つと言ったので、合鍵で美緒を部屋の中に入らせて、ジヨンと優羽は、家に帰ることにした。
「上手くいくといいんだけど」
ジヨンがスンリの部屋を見上げて、そう呟いた次の瞬間、突然、右耳に激痛が走った。
「痛っ!な、何!?」
優羽が、無言でジヨンを睨みながら、ジヨンの耳をつねっている。
口数が少ないとは思っていたが、やはり、機嫌を損ねてしまっただろうか。
「何だよ。怒ってるのか?さっきのは、浮気じゃないって言っただろ?」
「さっきのあれじゃない」
「へ?……痛っ!」
優羽は最後に強くジヨンの耳を引っ張ってから手を放すと、不機嫌そうにこう言った。
「前にも同じことしたって言ってたわよね?それっていつの話?聞いてないけど?」
「へ?あれ?言ってなかったけ?」
「聞いてないわよ!」
優羽は、眉を吊り上げて、声をあらげている。どうやら、焼き餅を妬いているようだ。
まさか、そんな昔のことで、優羽が妬いてくれるとは思わなかった。こんな時に不謹慎かもしれないが、嬉しいし、可愛い。
「ユウが心配するようなことは何もないよ。ミオだって、猫に舐められたくらいにしか思ってないだろうし」
「舐めたの?へえー、舐めたんだ」
「あ、それ、スンリも同じとこに食いついたよ。お前らって、実は似てるとこあるよな」
「気持ち悪いこと言わないで!」
「ユウって、本当にあいつのこと嫌いだな」
「話を逸らすな!」
何を言っても、優羽の表情は和らがない。焼き餅は嬉しいが、このままでは困る。
「ユウ。ユウと出会う前の話だよ?」
「へぇー、私と出会う前は、美緒のこと狙ってたんだ」
「違うって!弟の大切な人を手をそんな目で見るわけないだろ!」
「見ているじゃない。舐めたんでしょ」
「だからそれは…、美緒がスンリを弄ぶ悪い女だと思ったから…、試したんだよ!」
「はぁ?」
優羽が、訝しげな表情でジヨンを見る。中々信じてくれないことに苛々しながら、ジヨンは髪をかきあげ、溜め息を吐いた。
「あいつ…スンリってさ、遊んでるイメージがあるだろ?軽いって言うか、チャラいって言うか…」
「イメージじゃなくて真実でしょ?」
「…まあ、完全に否定はしないけど、あいつだって初めからそうだった訳じゃないんだよ。ただ、なんて言うか…、あいつって、女運がなくてさ…」
あいつはいつも変な女に引っ掛かる。
ジヨンは、そんな印象を持っていた。軽い付き合いが目的だったり、スンリを利用して、ジヨンに近付こうとしたり。スンリのことを大切にしようとはしない、優しいスンリには相応しくない女ばかり。
そんな女に出会う度、スンリが傷付いて、変わっていくのをジヨンは見ていられなかった。
このままではいつか、スンリ自身の優しさや誠実さまで消えてしまう。
そう思っていた時、美緒が現れたのだ。
「スンリから、俺の好きな人がヒョンのファンだから会って欲しいって言われて、ああ、またか…って思った。また、スンリを傷付ける女が現れたって…」
だから、試した。ジヨンの誘いに簡単に乗るような女なら、生涯消えないような傷を心に残して、スンリから引き離してやろうと思った。
「だけど、違った。ミオは一途に、スンリだけを見てくれる女の子だった。嬉しかったよ。スンリにも漸く、そういう子が現れたんだって。可愛い妹が出来たなって。これからもずっと、スンリの側にいてくれたらいいなって、そう思った」
「ジヨン…」
優羽が、自分の名を呼んだので、ジヨンは優羽を見た。その表情は、もう怒っているようには見えなかったので、ジヨンはそっと優羽の手を握った。
「ミオは…、これからもずっと、俺の妹でいてくれるよな」
「大丈夫よ。きっと」
優羽が、ジヨンの手を握り返して、励ますように言ってくれる。
(結局、支えられてるのは、いつも俺の方だな)
少しだけ情けない気はするけど、心は温かい。スンリも早く、こんな温もりに触れられたらいいなと、ジヨンは思った。
「ユウも、ずっと俺の側にいてくれるよな?」
「当たり前でしょ。バカ」
優羽の返事を聞いて、ジヨンは彼女の唇に、そっとキスを落とした。
画像拝借致しましたm(__)m