美緒が記憶を無くして二日。
ジヨンを通して、優羽から連絡があった。
『美緒は私の家にいるから、会いたかったら来てもいいわよ』
会いたいに決まっている。
だけど、本当に自分が会いに行ってもいいものか、スンリには判断出来なかった。
「行けよ。行かないとこのまま終わりになる。絶対に後悔するぞ」
ジヨンがそう言ってくれなかったら、スンリは、美緒に会いに行く決心が出来なかっただろう。
自分を覚えていない美緒に会うのは怖い。だけど、このまま終わりなんて嫌だ。
「大丈夫。ミオが嫌がっていたら、ユウは来てもいいなんて言わないよ」
ジヨンはそう言って、スンリの背中を押してくれた。
本当に、そうならいいのに。
少しでも、スンリに会ってもいいと、会いたいと思ってくれたなら。
(もし、嫌な顔をされたら、すぐに帰ろう)
スンリは心の中でそう決めて、美緒に会いに向かった。
「いらっしゃい。遅かったわね」
スンリを迎え入れた優羽は、仏頂面でそう言った。
「美緒、スンリが来たわよ」
美緒は、ぬいぐるみを抱えて、ソファーに座っていた。あれは確か、ジヨンが気に入っているキャラクターだ。きっと、抱き枕代わりにジヨンが持ち込んだのだろう。美緒の隣では、ジヨンの猫が寛いでいる。すっかり、ここが自分の家のつもりでいるようだ。
この空間は、ジヨンと優羽の幸せで満ちている。それを目の当たりにすることが、今は少しだけ辛かった。
「美緒、私は少し出掛けて来るわね」
スンリが訪れてすぐに、優羽が美緒にそう言った。
「え!」
美緒はすがるような目で優羽を見ている。
「夕食の材料を買いに行くだけ。すぐに戻って来るから」
「あ、で、でも…優羽ちゃん」
美緒は立ち上がって、優羽を引き留めた。しかし、優羽はそのまま出掛けていってしまった。
(そんなに、俺と二人になりたくないのかな…)
美緒の行動を見て、スンリはそんなことを考えた。優羽にすがっていた目。挙動不審な態度。スンリと二人きりになることを気まずく思っているとしか思えない。
やっぱり帰ろうかとさえ考えていたその時、美緒がぽつりと呟く。
「優羽ちゃん、一人で大丈夫かな」
そう言えば、優羽は人混みが苦手で、一人ではあまり外に出たがらないと、前に美緒が言っていた。記憶を失って、美緒が今の優羽を知らないとしたら、心配に思うのは当然だろう。
美緒が優羽を引き留めた理由は、スンリと二人きりになるのが嫌だったからだけではないのかもしれない。
少しだけ勇気をもらって、スンリは言った。
「大丈夫。ヒョンと付き合うようになって、ユウちゃんは少し、強くなったんだよ」
その瞬間、美緒がビクッと肩を震わせた。
「そ、そう…。ジヨンは優羽ちゃんを…大切にしてくれているのね」
そう言いながら、美緒は落ち着かない様子でソファーに腰かけた。
そんな美緒を見て、スンリは少しだけ悲しくなる。
(やっぱり…、俺と二人きりになりたくないって言うのも、気のせいじゃないか…。よく知らない男と二人きりなんだ。仕方ないよね)
二人の間に流れる空気は重い。そんな空気を感じ取ったのか、ジヨンの猫が何処かに逃げて行った。いてくれれば、少しは空気も和むのに、気の利かない猫だ。
(落ち着け。演技の仕事もやってるだろ、スンリ)
自分が動揺してはいけない。スンリは必死で自分を制して、笑顔を浮かべた。
「隣、座ってもいい?」
「ど、どうぞ…」
美緒はクッションを退けて、スンリの座る場所を作ってくれた。スンリは、美緒を怖がらせないように美緒から少し離れた場所に座る。
「あの…スンリさ…、すんちゃん?す…」
「スンリでいいよ。メンバーも友達もみんなそう呼ぶし、気に入ってるんだ。この名前」
「スンリ…」
美緒は、何かを確かめるようにスンリの名を呼んだ。
『スンリ』
何度も呼ばれた名前なのに、やはり少し、響きが違って聞こえる。
「あの、スンリ。聞いてもいいですか?」
「敬語も駄目。ミオの方が年上でしょ」
「あ、そ…そうだね」
恋人なんだから、とは言えなかった。今の美緒に、それを押し付けるのは酷だ。敬語を拒絶する理由が別にあったことに、スンリは感謝する。
「あの…、私とスンリは、その…何処で出会ったの?」
その質問に、スンリは一瞬だけ目を見開き、再び笑みを浮かべた。
初めて会った日。初めて会った場所。初めて交わした言葉。
二人の大切な思い出が、スンリだけの思い出になってしまったことは悲しい。だけど、美緒の中に、それを知ろうと思う気持ちがあることは、嬉しい。
スンリは、その時のことを思い出しながら、美緒に語った。
「ミオのお店だよ。仕事帰りに、俺がたまたま立ち寄って、ミオから声をかけてくれたんだ」
「私が?」
「BIGBANGのすんちゃんですよねって。誰のファンかって聞いたら、ジヨンヒョンって言ってた」
「わ、私ったら失礼なことを…ごめんなさい」
自分の過去の行動を聞いて、美緒が慌てて謝る。以前にも同じ理由で謝られた。変わらない美緒に、少しほっとする。
「いいんだ。おかげでミオに出会えた。素直で可愛い子だなって…一目惚れだったんだよ」
「嘘…」
「うそ?うそなんて、言わないよ」
気付いたのは、もう少し後になってからだったけど、スンリは一目で、美緒に心を奪われていた。美緒に会いたくて、何度も店に通った。会うたびに、美緒を好きになっていった。
「出会って、半年が過ぎた頃かな?俺から告白したんだ。ケイタイバンゴウとホテルの部屋を教えて、ミオを誘った」
「なっ!」
スンリの正直な告白を聞いて、美緒は顔を真っ赤に染めた。
「だ、駄目でしょ!そんな…軽い気持ちで女の子を誘っちゃ!メンバーにも迷惑がかかるかもしれないし、スンリの為にもならないんだよ!」
幼い子供を叱るような口調で、美緒は言った。
聞き覚えのある説教に、スンリの表情は自然と弛む。
「うん。あの時もミオに、同じこと言われた。ああ、やっぱりミオは俺が思った通りの女の子だって、嬉しくなったよ」
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スンリが笑顔でそう言うと、美緒は赤くなって俯いた。
しばらく沈黙が続いたが、最初にあった重い空気は、少しずつ和らいでいる気がする。
「あの…」
「なに?」
「私、行ってないよね?」
「え?」
赤い顔で、恥ずかしそうに、美緒が尋ねる。スンリが首を傾げると、美緒はもじもじしながら言葉を付け加えた。
「だから、その…ホテル」
美緒の可愛い心配に、スンリは思わず吹き出した。
「な、何がおかしいの!」
「ごめん。ミオが可愛いから」
「な…な…」
美緒の顔は、どんどん赤くなっていく。スンリの中に、少しだけ悪戯心が沸いて来る。
「あの日も、ミオは可愛いかったよ」
「なっ…」
スンリの言葉に、何を想像したのか。美緒は、口を開けて絶句してしまった。
「う、うそうそ!そんなはずない!スンリ、嘘って言って」
「だって、本当に可愛かったし」
「やー!そんなの嘘よー!」
美緒は、自分がそんなことをするとは信じられないようで、スンリにすがりながら、何度も「嘘よ」と繰り返す。
(可愛いな)
美緒は、本当に可愛い。だけど、これ以上は可哀想なので、スンリはクスクスと笑いながら、種明かしをした。
「ミオが可愛かったのは本当。でも、安心して。ホテルには行ってないよ。俺もミオが来てくれるなんて思ってなかったし」
それで簡単に誘いに乗るような女の子だったら、きっと始めから、誘ったりなんてしていなかった。
「も、もう!からかわないでよ!」
「ごめん。だって、ミオが本当に可愛いから」
スンリの口から自然に出た「可愛い」という言葉に、怒っていた美緒の表情が変わった。
可愛い。愛しい。抑えていた気持ちが、スンリの中から溢れだす。
「俺がそんな誘い方をしたのは、そうでもしないとミオが俺を男として見てくれないと思ったから。その日から会う度に好きだよって伝えて、信じてもらうのに、半年かかった」
「…………」
スンリは、初めて美緒と身体を重ねた夜のことを思い出していた。改めて「大好きだよ」と伝えて、そっと重ねた唇。美緒の目からは、宝石のような涙がこぼれ落ちた。
『嬉しいの…。私…私も、スンリが好き』
スンリの気持ちに応えてくれた美緒の言葉を忘れない。
それからスンリは、美緒をベッドに運んだ。美緒は想像通り、あまり男に慣れていなくて、とても緊張していたけれど、小さな身体で精一杯、スンリの愛を受け止めてくれた。
この子を一生大切にしよう。
美緒がスンリの全てを受け入れてくれたその瞬間、スンリは、そう心に誓った。
「ミオ、大好き」
あの日と同じように、スンリが囁くと、美緒は大きく目を見開いた。
スンリの気持ちは、あの日と何も変わっていない。それなのに、美緒は変わってしまったんだろうか。
そんなはずはない。そんなこと、あるはずがない。
スンリは、掠めとるように、美緒の唇に自分の唇を重ねた。
「…………っ!」
驚いたのか、美緒の身体が硬直する。
「ミオ…」
スンリはもう一度、今度はもっと深く、美緒と唇を重ねた。
美緒の好きなキス。美緒の好きな場所。美緒の身体のことなら、何でも知っている。愛撫に対する身体の反応は、何も変わっていない。
スンリは、力の抜けた美緒の身体をソファーに押し倒した。
「ミオ、サランヘ…」
韓国語で囁いて、スンリは美緒の唇を激しく貪る。胸へ、腰へと這わせた手をそのまま足の付け根に滑り込ませた。
その時、
「いやぁあああ!」
美緒が絹を裂くような悲鳴を上げ、スンリの身体を突き飛ばした。驚いて、美緒から身体を離すと、美緒の瞳からは、はらはらと涙が流れ落ちていた。
「ミオ…」
「うっ…、ひっく…」
美緒は子供のように啜り泣きながら、ガクガクと震えている。スンリが思わず手を伸ばすと、怯えるようにびくんと震えた。
「ごめん…。何もしないから、泣かないで…」
泣かせるつもりなんてなかった。愛しさが溢れて、ただ、それを伝えたかっただけなのに、どうしてこんなことをしてしまったのだろう。
「前にも一度、ミオを怖がらせちゃったのに…、俺、成長してないね」
スンリは、そう言って笑ったつもりだった。だけど、笑顔を作ろうと目を細めたその瞬間、何かが頬を伝っていく。不味いと思い、スンリは美緒から視線を逸らした。
「スンリ…」
「ごめん。俺、帰るよ…」
スンリは、美緒の顔を見れないまま、その場から離れた。
大切にしようと誓ったのに。
美緒を傷付けることしか出来ない自分が、情けなくて、憎らしかった。
画像拝借致しましたm(__)m