近頃、高騰するツアー価格の低減を狙ってか、食事が抜けているものが多い。今回はランチが2回、夕食が1回相当。自分で選ぶのは時に面倒だが、お仕着せよりも美味しくて安い店、あるいは高くてもお洒落な店をを探す楽しみもある。

ランチの1回目は、地元のソウルフードともいわれる唐揚げチキン満載のハンバーガーを購入し、松前城の桜に囲まれながら楽しんだ。

夕食はどうしよう。今日は水曜日で、函館の飲食店は休業が多い日だそうで心配だ。ホテルの窓から見える市場も明かりの消えている店がある。桜の見頃で書き入れ時なのに、函館商人は欲が無いのう。

降り出す前に店を探したい。寿司店、小料理店、こじゃれた店には長い行列ができている。都内でも市場の価格は高いが、函館も同じ。
新しいホテルが集中する駅前を少し離れると、再開発後そのままの「整理地」「売地」がポツポツ。うら寂れた感じが漂う。
 

古いホテルの2階に鮨屋を発見。ひと気が無いが大丈夫か?グルメサイトを見ると結構評判がいい。先客の皆さんを信じて、薄汚れたガラスの引き戸を開け、駐車場の端っこにあるようなエレベーターで上がる。

出るとホテルのフロント、人影なし。奥に鮨屋の暖簾。頭を突っ込んで覗いたら、カウンターに先客一人。大将の姿はない。フロントに声を掛けたら、スタッフがお店に案内してくれた。ホテルのレストランも兼ねているらしい。
大将が現れ、注文が通る。ホテルの受付スタッフがお茶を運んでくれる。コスパが良くて満足。翌日の昼も行っちゃった。


さて、最終日。朝食を取っていたら、窓越しに大型客船が停留した。船を検索したら、世界一周ではなく、日本の各地を周遊するコースらしい。桟橋近くの駐車場にずらりと並んだ観光バスの数に圧倒される。今日の観光ポイントは大混雑だねえ。

 

とうとう雨に掴まった、と思いきや、出発直前に上がる。この旅で傘の出番は無さそうだ。晴男、晴女のみなさん、有難う。

先の四稜郭同様、桜の時期でないと訪れないという戸切地(へきりち)陣屋遺跡へ。
箱館開港に際し蝦夷地防衛のため、幕府の命により松前藩が1855年に構築した、四つの稜を持つ日本初の西洋式星型要塞だ。入口の門から伸びる長い桜並木が「売り」だろうが、まだまだ蕾状態。

四稜郭によく似ていると思ったが、あちらは13年後の1868年、旧幕府脱走軍が新政府軍の攻撃に備えて数日で築いた防御陣地で、松前藩士が加わった新政府軍に攻撃されて退却した。


松前藩の幕末は正に「動乱期」。長くなりますが・・・
ロシアが南下政策を進めて日本との通交を求めたが、藩はこれを秘匿、江戸に伝えなかった。
これを知った幕府は蝦夷地探検のための役人を派遣し、1799年に松前藩の蝦夷地を7年間召し上げ、代替地5千石と給付金を与えた。
7年目を迎えた1802年、返還はなされず、1807年には西蝦夷地も取り上げられ、陸奥国伊達軍に9千石で転封となる。
1821年に蝦夷地が返却され、松前に戻った。
1849年、幕府の命により松前(福山)城の築城に着手、1854年に完成した。松前氏は此処で漸く「城持ち大名」になった。
1854年、日露和親条約締結により、箱館港が開かれると、幕府は再び蝦夷地の直轄を図り、1855年に渡島半島南西部以外の地域を召し上げた。代わりに陸奥国と出羽国に合計3万石の領地と手当金が与えられたが、蝦夷地の交易権を失い、財政が逼迫した。
1864年、松前藩主祟広が老中になり、蝦夷地の一部が返却されたが、手当金が削減されたため、経済状況は士分も民も悪化した。
明治維新後の1869年、14代藩主が版籍奉還を願い出、「館」藩知事に任命された。藩名の由来は、朝廷から西部厚沢部村の館に新城の建築許可が下されたことによる。館藩は1871年の廃藩置県まで2年間存続した。

戊辰戦争では当初、奥羽越列藩同盟に加わっていたが、勤皇派の正義隊が藩政を掌握したため、官軍に寝返り、旧幕府軍と戦った。

これまで松前藩は船舶、積み荷、旅人から税金を徴収する口番所を松前と江差に置いていたが、明治2年に廃止され、代わりに政府系の海官所か開かれたため、口番所の収益をメインにしていた館藩は財政難に陥る。
館藩の窮状の訴えにより、口番所の後身海官所が再開されたが、急激なインフレで財政難は解消せず、藩政も混乱した。

幕府崩壊、戊辰戦争、明治維新の国内動乱に加え、開国に伴う開港ラッシュ、その後のインフレ、ニシンの不漁・・・これでもかと言う位、時代の荒波に翻弄されてお気の毒。

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