羽黒神社宮司のブログ -1496ページ目

鳥居河原の河童

普段はジオログ で書いておりますが試しに転載いたします。



羽黒神社宮司のブログ-柳田神社と河童1


上戸の柳田神社がまだ川上の奥にあったころの話や。


柳田明神の神主様は馬を三頭飼うとって、まーかい(馬子)も雇うとったと。馬は山からタキモン(薪)運んだり、浜から塩運んだりしとったと。


あるとき、塩浜の塩かんで(担いで)鳥居河原を渡ろうとした時や。なんやら馬のおっぽ(しっぽ)に青いもんなぶらさがっとる。


よ~見たら河童(かっぱ)やった。この河童はいちがいもんながかよう明けてもおっぽから離れなんだげと。(この河童は頑固者なのか朝になっても尻尾から離れませんでした)


神主様な怒ってもて「われみたいなもんなかちころいたる!(貴様のようなものはぶち殺してやる)」ていうたがや。


ほしたら河童も「ゆるいてくだし(許してください)、たすけてくだいま(助けて下さいよ)」て泣いて頼んでんと。


ほしたら神主様な「これからな、宮の上の桜の木と坂の下の白い石がなくなるまで人間にわっさすんな!(悪さするな)」て言うて逃がいてやってんと。


ほれから河童は逃がいてもろたお礼に毎朝川魚捕って神主様の家の玄関に引っかけていってんと。河童は神主様に魚届けた帰りにゃ、必ず白い石をぺろぺろ~てなめていったて話や。



珠洲のむかしばなし④でございます。


上戸町南方に鎮座する柳田神社は宣化天皇の御代(今から1,500年ほど前)に上戸村柳田の地に天児屋根命(アメノコヤネノミコト)が降臨された故事を創始とする古社で現在は海岸べりですが以前は山の麓に鎮座されていたようです。


この柳田神社の河童はその後も魚を届け続けたのですが、ある時馬の鞍(だったかな?)を金属製に新調したところ金物を嫌って来なくなったそうです。(まちがってたらごめんなさい)


河童は「かわうそ」とも呼ばれ、境港市が発行する「水木しげるロードの妖怪たち」にも「川うその化け物=出身地:石川県・能登」とあります。


http://www.sakaiminato.net/site2/page/tuuhan/rodoyoukaitati4/


で、


この柳田神社の名誉宮司様(宮司さんのお父様)は知る人ぞ知る「カッパグッズマニア」なのです。社務所には置物、食器、色紙、人形など、ありとあらゆる河童グッズが満載で、ある時私に「あんたも一枚描いてくれ」って言われて描いたのが下の画像(^▽^)



社宝に…ならないか

羽黒神社宮司のブログ-柳田神社と河童2

片岩「叩き堂祭り」の由来

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珠洲市片岩(かたいわ)町は外浦地区、旧西海村にあり、氏神片岩白山神社に於いて毎年1月6日珍しい「叩き堂祭り」が行われます。
地元の人は「カタワイのタタキド」といいます。


羽黒神社宮司のブログ-叩き堂



源左門之介(みなもとのさもんのすけ)ていうお武家様なあカタワイ歩いとったら、ある家の中からなんやら泣き声が聞こえてきてんと。

なんやと思うて覗いてみたらバアバ(お婆さん)と、どっだい器量良しのにょうぼの子(たいへん綺麗な娘さん)な寄り添うて泣いとってんと。
左門之介は「バアバ、なしてん(お婆さん、どうされたのですか)」て聞いたら、バアバな
「おらかたの山におっとろしいヒヒゃあ住んどって、毎年一人あってにょうぼの子いくさにゃならん。今年ゃあおらの番ながでごぜんす。」
(集落の山に恐ろしいヒヒが住んでいて、毎年一人づつ娘を差し出さなくてはなりません。今年は当家の番なのです)
ていうたもんで、左門之介はいとしげのうなって(かわいそうに思って)思案したげと。

左門之介はアカバ(女物の着物)来て長持ちの中に入ってにょうぼの子のふりしてヒヒのとこへ向こうてんと。
ヒヒゃあにょうぼの子やと思うて食いにかかったほの時や。
(ヒヒが女の子と思って襲いかかったその時)
左門之介は刀振りかざしてバッサリ!
ヒヒっゃ血ぃ流いて泣いて逃げてった。
ほれ見とったカタワイのもんらっちゃあ、喜んでバイ叩いてさわいでんと。
(それを見ていた片岩の人たちは喜んでバチで床を叩いてはやしたてたそうです)


珠洲のむかしばなし③
ですが、翻訳が大変です(笑)

この話がもとで約300年続くといわれている「叩き堂祭り」は珠洲市無形文化財に指定されています。
片岩白山神社は石川県神社庁珠洲支部長K宮司の兼務社で、私は先代宮司の頃一度見学に行ったことがあります。
片岩白山神社には日吉神社(山王権現)が合祀されていて、ヒヒは山王権現のお使い「猿」を騙った山の邪神といいます。
以前は2月6日に宮司の年頭の神事の後に行われていたようですが、現在は氏子のみで行われているようで、その内容は古式を今に伝承していて大変興味深いものです。

叩き堂祭りの概要:
1月6日夕刻
*神社に氏子が集まり神前にお神酒とマナ板と鱈が供えられる。
*当元(一年神役)がお神酒ふるまい、直会(なおらい)が始まる。
*「まないたなおし」~当元が生贄の娘に見立てた鱈をぶつ切りにし、氏子はおのおの持参した丸餅を当元めがけてぶつけ、ヒヒ退治を再現する。
*「はなまい」~その年の恵方から切り出したタブの木の枝を神前に立て、神迎えの儀を行う。
*「からちょうず」~タブの木の葉をちぎり身を清める。
*最後に参列の氏子全員でケヤキの棒(バイ)で拝殿の床を叩き、氏子一人一人がタブの木を抱え、神前を往復する。

羽黒神社宮司のブログ-タタキド





このお祭りは、ある意味氏子のみで伝承されたため、神事の意義は特に考えずに古式として残ったのかもしれません。

イラストは当時の読者から「あの絵は手塚治虫の『どろろ』に出てくる百鬼丸じゃないのか?」と言われたのですが…
ご名答です…まあいいじゃないの

岡田の地蔵様

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羽黒神社宮司のブログ-岡田の地蔵様


むかしは正院にも市が立っとてなあ。
飯塚岡田のもんらっちゃあ、正院まで買いに来とったがや。
(飯塚・岡田地区の人たちは、正院地区まで買い出しに来ていました)

飯塚から岡田行く峠の薄暗いとこに、ようキツネやらムジナやら出てのう、
在所のもんな、ようばかされたがや。

いるもんこうたら(必要なものを買ったら)酒一杯呑んで、酔うて帰って、
「かあか、ほろ魚こうてきたぞ(お母さん、それ、魚買ってきたぞ)」
って出したがは、魚でのうて木の枝やった。

かいもち(おはぎ)こうてきゃ泥だんご。
へいか(干イカ=するめ)こうてきゃ木の葉っぱ。

傘どもこうていったさいにゃ、峠のウチのないとこで(傘なんか買った時は、峠の民家がないところで)後ろから引っ張られる。
とうとは(お父さんは)キツネ出たと思てへでて(急いで)逃げたげと。
昼間行ってみたら傘は木のたかに(てっぺんに)引っかけてあってんと。

ほんながようあったさかい、火葬場にあった地蔵様を峠に移いてんと。
ほしたら、ほれからキツネもムジナも出んがになってんわいね。



珠洲のむかしばなし、その②でございます。

正院町岡田地区は私が宮司を兼務する火宮神社が鎮座しており、もともとは八ヶ山(はっかやま)を修験道の霊場として守護神「火の宮」に不動明王をお祀りしていました。
羽黒神社宮司のブログ-岡田火宮神社  岡田地区の氏神様 火宮神社



羽黒神社宮司のブログ-富山湾越しの立山


              飯塚方面から見た正院地区 富山湾越しに立山が見えます


このお地蔵さまは現在でも岡田のご婦人グループがお世話しており、毎年3月9日にお参りして、お地蔵さまの帽子や前掛けをお取り替えしておられます。

ところで最近は里にキツネが出没しておりますが、どうも作物を荒らすウサギを駆除するために人為的に放されたものが繁殖しているようです。

ひょっとしたらみんな気が付いてないだけで、すでにばかされているのかもしれません。
(えっ?狐じゃなくて鳩に…?)