祭りと笛をこよなく愛した男 | 羽黒神社宮司のブログ

祭りと笛をこよなく愛した男

先般、ちょうど羽黒神社の新嘗祭でした11月19日、

その日の夕方がお通夜で、お祭りが終わってから参列いたしました故人の追記。

 

というか、

まあ思い出話ですね~・・・

 

若い時から長きに渡り、お隣町の春日神社の総代様を勤められていたその方、

きっかけは、平成23年に齋行されました、春日神社御鎮座750年式年大祭の折、

当社の、正院町雅楽会が演奏奉仕を依頼され、

(この時は大所帯でした・・・)

 

その演奏に、いたく感激された総代のOさん、

「(私に)宮司さん、ウチも笛好きな若い衆集めて、雅楽会立ち上げようと思うげんけど、どうかね?」

 

あ、いいんじゃないですか?

 

と、そんなこんなで、

それから1年ちょっと経って、春日神社の祭礼に、曳山の笛を吹いている人たちを中心に、ついに飯田町雅楽会を立ち上げ、

私も何度か手ほどきにまいりましたが、

この時のO氏いわく、

 

「俺はね、集まってくれた若い衆に、

『いいかわっちゃ!(お前ら)、好きな事しに集まっとるんやさかい、演奏させてもろうとる立場やし、お宮さんから一銭ももらおうと思うなやっ!』

って言うてあるげんわ♪わはは」

 

だそうで・・・

正直ぶったまげました。

あくまでも「奉仕の精神」!!

 

練習後、飯田の町で一杯のみに行きましょうと誘われたんですが、

車で来ていたので丁重にお断りし、

 

帰宅して数時間後、電話で、

「近くまで来たし、出てきてくださいよ♪」

 

というわけで、わざわざウチの近所のお寿司屋さんまで来ていただいて、お誘いにあずかり、

同じくお呼び出しがかかっていたウチの雅楽会のY会長と合流。

Oさんと、飯田で龍笛吹いてるM氏と合流。

 

その時ですね、

今でもハッキリ覚えております。

 

飯田町雅楽会を立ち上げたO氏ですが、実は、過去に事故で右手の中指を失っており、

いわく、

「俺ァ、むか~しから笛が好きで好きで、飯田の祭りに笛吹いとってんけど、指無くなってあきらめて、

ほやけど、これからは、雅楽会で太鼓に専念するわwww」

 

ん・・・

あのね、Oさん、

龍笛はムリやけど、篳篥なら、蘆舌を出したり引っ込めたりで、一音くらい調整できるし、

指ないトコ、セロテープ貼って出来るかもしれんよ?

 

と、申しましたところ、

 

O氏は、めでたく(?)管楽器に復帰したのでありましたー♪

画像↑は平成27年、羽黒神社齋館で、当雅楽会と合同練習の時で、いちばん手前で篳篥を拭いておられるのが、O氏でございます。

ただ、O氏は結局、セロテープを貼ることは無く、通常篳篥では使わない、右手の小指を使って吹いておられたのでした!!

 

努力の人であります。

 

で、

この時も、近所のお寿司屋さんで直会(^^;

この時に、

 

「俺ァ、もう笛は一切あきらめとったけど、宮司さんのアドバイスのおかげで篳篥吹くことになって、

ありがたいなー、と思うとるげんわいね♪」

と、仰られ、

 

この数日後、石川県神社庁珠洲支部の大麻頒布始奉告祭で、春日神社が当番会場となり、

初めて、当正院町雅楽会と、春日神社飯田町雅楽会との合同演奏奉仕が実現したのでありました。

 

この時、O氏がものすごい嬉しそうにされていたのを覚えております。

 

あれから数回、

 

春日神社のお祭りでも一緒に奉仕したり、

打ち上げもご一緒したりはあったのですが、

 

訃報は春日神社のK原宮司からあり、

ちょうど羽黒神社の新嘗祭に、K原宮司をお願いしていたこともあり、

 

「そういうわけで、お通夜やし、祭典終わったら、すぐ帰ります。ゴメン!」

 

あー・・・

俺も行きたいけど、お祭りやし、行けんなー

女房に香典だけ届けてもらお・・・

 

と、思っていたのですが、

 

女房が、

「アンタね!なんとかしてお通夜行かし!Oさん、生前、アンタのおかげで篳篥吹くことになって、喜んどったらしいよ!絶対、アンタ本人が行った方がいいっ!いいかげんカンネンしろっ!!」

 

と言うもので・・・

いや、さすがにお祭り後、酔っぱらって行くのもどうかと思ったのですが、

マスクしてるし、いっか・・・

 

というわけで、新嘗祭の後片付けを終えて、女房の車で祭場へ赴き、

 

会場に着きましたらば、

飯田の雅楽会のみなさまは、楽器をスタンバイされておられて、

先に来られていたK原宮司に、

「なんか演奏するの?」

と訊きましたらば、

「うん、ご焼香の間、一曲だけね」

とのことで、

 

それは故人は喜ばれるやろね~・・・・

 

あ!

 

じゃ、おれも一緒に吹いていい?

 

ということで、

女房に電話して、龍笛を持ってきてもらい、

 

それは、まがいなりでも、O氏が再び笛に携わることになった原因の一人として、

 

なかば押しかけですけどね。

 

ちなみに女房の実家は春日さんの氏子地内なので、当然、O氏や飯田の雅楽会のみなさまのことは、子供のころからよく知っているわけでございます。

 

龍笛を届けてくれた女房は、迎えに来た車の中で、

「最初からこうなる(龍笛を吹くことに)と思うとったわ。Oさんはこうなることを望んどったの!わかった?」

 

ハイ・・・

 

 

翌、本葬は、

朝から七五三や車のご祈祷、新嘗祭等々で失礼いたしましたが、

 

お通夜での、O氏の経歴を拝聴いたしますと、

ホント、

人のお世話で尽くされた人生だったようですね。

 

とはいえ、まだ60代なかばで、決して長い人生とはいえないとは思いますが、

 

充実した、濃い人生だったんじゃないでしょうか。