12日の由来 | 羽黒神社宮司のブログ

12日の由来

もたもたしているうちに、今日明日は地元のお祭りでございますが、

 

全国的に、八幡さんの祭礼といえば、15日が多いのですが、これは勅祭石清水祭が9月15日(旧暦では8月)に齋行されていて、諸国の、特に石清水系の八幡宮は是に倣ったものでありますが、

 

では、片姫神社の粟津祭礼はなぜ12日なのかといえばですね、

明治期に合祀されました、もとの粟津集落の氏神、十二林社の祭礼日でございまして、

 

文政11年(キリスト暦1828)の記録にはすでに、「9月12日」と記されており、

 

「十二」というのは、神仏習合時は粟津薬師と称されていた時代があり、薬師如来を守護する十二神将の意、と解釈し、廃仏毀釈後は、少彦名神(すくなひこなのかみ)を以てご祭神とされているのですが、

 

当社棟札(むなふだ)には、「十二天尊」と記されているものもあり、多少、陰陽道系の影響もあって、この12という日が重要視されたものと考えます。

 

ただ、問題点もあって、

 

旧珠洲郡内には、他にも、かつて「十二社」と呼ばれたお社がいくつかあって、そのほとんどは、廃仏毀釈後、薬師如来像を廃し、少彦名神にあてられているのですが、

 

民俗学者の中には、ひょっとして、それはもともと、熊野十二所権現ではなかったのか?

 

という考察をされる方もおられ、

 

つまり、十二所=十二神将=薬師=神仏判然令で少彦名神、と、よくありがちなムチャなご祭神の当てはめ方ではなかったか、と、少々、明治政策への批判的な見方もあるわけでございます。

 

しかしながら、かつて、「願えばいかなる大病もたちどころに退散する」とうたわれた粟津の神ですので、

 

この日がむかしから、集落の安泰を願う大切な日であったことには間違いがないのであります。

 

前半は順調に、午後七時過ぎに当元入り。

当元(とうもと)というのは、祭礼中にお神輿がお休みになる御旅所的な役割を担うお宅のことで、現在は、神職の夕食も兼ねておりますが、

かつては、祭礼すべてを取り仕切る、重要な役職で、村の肝入り的な存在でした。

 

ここで、各家庭に分散した大学生も一緒に「およばれ」。

この時点では、雨も小康状態だったのですが・・・

 

午後9時30分、

神様のお立ちの神事を奉仕し、再び氏子内を巡幸する時刻に、またまた雨が本降りになり、

もうムチャクチャです(x_x;)

 

後半は、16件のお宅にお神輿がお立ち寄りになり、神事を奉仕いたしましたが、

行く先々で、

「すんません、座布団汚します・・・」

 

で、お神酒は適当にいただいているものの、それほどゆっくりしたところもなく、無駄な時間はなかったと思いましたが、

 

けっきょく、還幸は深夜、というより、朝の4時前・・・(T▽T;)

もう12日じゃないですけどね・・・

 

境内にはワラが敷かれ、再生の火が焚かれるのですが、この時間だけ、雨が上がっていました。

 

無事ご帰還。

還幸祭を終えて、帰宅したのは、午前5時でございます。

 

貴重なお休みの13日は、昨日お伝えしたとおり、午前中に大学生らにお祭りの講話をいたしておりましたが、

 

お昼過ぎに帰宅したら、もう一度倒れるように寝てしまい、

 

お昼ご飯を食べたのが、午後4時半でございました・・・

 

 

カラダグダグダですが、今日からのお祭りに、再び臨みます!