蜂子皇子は何処へ? | 羽黒神社宮司のブログ

蜂子皇子は何処へ?

出羽三山神社公式ホームページより

「崇峻5年(592)の冬、父である第32代崇峻天皇が蘇我馬子(そがのうまこ)によって暗殺された。このまま宮中に居ては皇子である蜂子の身も危ないと、聖徳太子(しょうとくたいし)の勧めにより倉橋の柴垣の宮を逃れ出て越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた。
~中略~
その時、片羽八尺(2m40cm)もある3本足の大烏が飛んできて、皇子を羽黒山の阿久岳へと導いた。これにより、由良の浜を八乙女の浦と称し、皇子を導いた烏にちなんで山を羽黒山と名付けた。


羽黒神社本宮、出羽三山神社(月山・羽黒・湯殿山神社)開祖、蜂子皇子(はちこのおうじ)でございますが、

大和国より出羽国由良の浦までの道のりは諸説あって定まっておらず、とはいえ、なんとなく、皇子は山城から宮津に至り、海路で・・・というのが定説だとばかり思っておりましたが、

ナント!

出羽三山神社のHPには、ハッキリ「能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた」と書いてあるではないですかっ!(ノ゚ο゚)ノ


気がつきませんでした~っ!!

出羽三山神社については、平成5年に参拝した折に、同神社の神職さん方とも直接お話しさせていただき、たくさんの資料もいただいて、何度も読みかえしており、ネットの記述も数限りなく見ていたつもりでしたが・・・
(゚Ω゚;)


羽黒山(本宮)開山以降、修験道が活発になりますと、羽黒信仰を広めるために、修験者たちが日本全国に羽黒神社を勧請していくのですが、

中でも、日本海側の、蜂子皇子が立ち寄られたとされる地に、羽黒神社は建立されていくのですが、このHPの記述が真実だとすれば、我が羽黒神社が鎮座する正院町にも、皇子が立ち寄られたかもしれないのであります
\(゜□゜)/


それを思わせるのがこの、


珠洲郡誌に記載されている、私が宮司を兼務している火宮神社の記述で、

「往古八箇の山麓に在りし」

さらに、正院町の寺院の記述にも、「八箇山にありし」という記述が見られます。


八箇(はちこ)山は、現在「八ヶ山」とよばれているのですが、往古はその奥を「石ヶ峰」といい、修験道の霊場があったとされる場所で、鎌倉時代頃には、能登の霊場である石動山系の修験者が入っていたと考えられ、山を囲むように、6社の火宮神社が鎮座しています。
「火宮(ひのみや)」は石動山五社権現の一であります。

画像↓の、向かって左手前が、羽黒神社の旧鎮座地の羽黒山で、遥か奥が八ヶ山(八箇山)であります。



八ヶ山へ登ると、頂から、能登の外浦と内浦の両方の海岸が見える場所があり、皇子がそこから眺めて佐渡を目指した、と、充分考えられるではありませんかっ!!
(地名以外、大した根拠はないですけど・・・)

「はち」と名の付く山は、だいたい鉢をひっくり返したような△だから、というのが多いですが、そうでもないですしね~♪



では、この山頂から、どこの海岸から出発したか?

と、考えますと、


地名的に、「鉢ヶ崎(はちがさき)」という、現在海水浴場になっている場所があるのですが、


なんか、むか~し聞いたハナシでは、このあたりから船で釣りに出かけた人が流されてしまい、潮に導かれるまま漂流していたら、佐渡の小木港に着いたそうですが(実話らしいです)、

そうしますと、海流的には考えられなくもないですね(?)



つまり、多くの民に慕われたと伝えられる蜂子皇子様は、落ち延び先の能登でも手厚くもてなされ、後に「八箇山(蜂子の山)」「鉢ヶ崎(蜂子が岬)」と名づけた・・・



と、考えてみた(考えたい)だけで、何度も申しますが、どこにも根拠はありませんけどね(^^ゞ



ただ、蜂子皇子がたどり着いた出羽の由良の海岸には、なぜか加賀の白山大神が祀られていて、羽黒山と白山は両社一対だというのですが・・・


当羽黒神社もまた、羽黒山・白山の大神を同時に祀るやしろで、両社はかつて、旧鎮座地の羽黒山と、勧涛山(かんどやま)に分かれて鎮まっていて、両社の御旅所であった現鎮座地が、ちょうどその直線状に位置しているのでございます。



まあ、想像は膨らむばかりなり・・・でございます(;^_^A



夕方になってこんなことを考えていたので、けっこう暗い、境内裏から見た羽黒神社。




う~ん・・・月山大神?



まあ、サラッと流してください・・・σ(^_^;)