環状木柱列 | 羽黒神社宮司のブログ

環状木柱列

珠洲市のお隣の能登町真脇(のとちょうまわき)というところに、国の史跡に指定されている縄文時代の集落跡の遺跡があるのですが、そこには環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ)という不思議なものがあります。
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巨大な柱を円形状に並べたものと考えられ、その地面に埋めた穴と木片の遺跡なのですが、今回それが復元されたそうです。
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この遺跡は、何に使用されたものなのかは不明で、おそらくは古代の祭祀跡だと考えられます。

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しかし、スゴイですね~・・・

これを現代によみがえらせたのもスゴイですが、4000年前の縄文人がこれを作ったことがもっとスゴイヽ(゚◇゚ )ノ
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この柱は腐食しにくいクリの木で、丸太ではなく割木で構成されています。

強度を考えると、やっぱり丸太を使うはずですから、この柱の上に楼閣のような建物があったとは考えにくいそうです。

ということは、柱だけが建っている、ヤッパリ古代祭祀跡?

縄文時代と言えば、狩猟中心の原始的な生活をしていたと思われがちですが、実はそうとう高度な文明を持っていたと最近は考えられ始めています。

これは真脇出土の縄文土器ですが、
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この複雑な形状の土器を作り上げる技術もそうですが、縄文文様をつけるための縄があったんですから、普通に考えてもそうとう高度な文明であったと想像できます。

神道(しんとう)の基礎となる古代アニミズム的な信仰が生まれたのは、農耕中心社会となる弥生時代以降と考えがちですが、これもどうも違うようです。

真脇では縄文時代にすでに捕鯨が行われていて、遺跡からはイルカやクジラの骨が出土しています。
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イルカやクジラなどの大型哺乳類を捕獲するのは個人じゃムリですからね、チームを組んだ漁民集団が必要になってくるわけで、そうすると必然的に集落が形成され、そこに暮らす人々が未来永劫安泰でありますよう「祈る」感覚が生まれ、次第に「祈りの場所」が必要となってくるわけです。

4000年ですよ!よんせんねん!!

おいこら!反捕鯨のバカチンどもっ!
捕鯨は太古からの日本民族のでんとうなんじゃっ!!
ムダに殺してたお前らとは違うんじゃっ!!!


というわけで、
この真脇の氏神様は高倉神社といい、創始が千年はくだらないという古社なのですが、古来真脇の人はクジラが撮れると一番にこの高倉神社にお供えし、感謝をのべたそうです。
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「高倉」の名がつく神社は珠洲市内にもう2社存在し、この真脇の高倉神社とともに「高倉三山」と呼ばれていたようで、それぞれにクジラやイルカにまつわる伝承があります。

ちなみに真脇は現在は鳳珠郡に属しますが、町村合併前は鳳至郡、昭和30年に能都町に編入されるまえは珠洲郡小木町。
珠洲だったんですね~・・・

この「高倉の神」の神社は全国各地にありますが、ご祭神はバラバラで、「高座(たかくら)」すなわち、高台にいます神、または神格が高い神で、特につながりはないようですが、

この復元された環状木柱列を見ると、なにかこの「高倉」という社名にもつながりを見出したくなります。

巨大な柱を建てて、神の降臨を請う、といえば、一番に想像するのがこの、
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諏訪の御柱(おんばしら)です。

諏訪地方では多数の神社で境内にこの御柱が建てられますが、もとは社殿が無く、柱を建てて祭祀を行なっていた名残といわれています。

そして、複数の巨大な柱といえば、
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ヤッパリこれ、古代の出雲大社ですね~o(^▽^)o

国譲りで大国主命が自分の住まいとして建てたのが創始といい、時代的に三千年前くらいと考えられていますが、
四千年前の環状木柱列の技術が千年の時を経て発展していったと考えられなくもないではありませんか。(だいぶ飛躍してますけどね・・・)

何のためかはわかりませんが、わざわざ木を縦に割って建ててある、というのがネックのような気がするのです。
鉄器があったのか?

どっちみち、これだけ巨大な柱を精製する技術が古代の能登にあったわけですからね。

今後の研究の成果に期待したいです~♪