負の数同士を掛けると正の数になります。国語の学習において、それと似ているのが「二重否定」です。具体的な例を挙げてみましょう。
A J中バレー部がこの大会で勝たないとも限らない。
B この調子で勉強を頑張れば、志望校に合格できなくもない。
C この値段なら、僕のお小遣いでもあのゲームソフトが買えなくはない。
D そのお駄賃なら、お手伝いをしなくもない。
E 今謝れば、まだ仲直りできないこともない。
F 彼女が参加するというのなら、僕はスケジュールを変更してでも参加しなくはない。
これらの二重否定は、単純に言い換えるならこんな風に言い換えることができます。
A J中バレー部がこの大会で勝つかもしれない。
B この調子で勉強を頑張れば、志望校に合格できるかもしれない。
C この値段なら、僕のお小遣いでもあのゲームソフトが買える。
D そのお駄賃なら、お手伝いする。
E 今謝れば、まだ仲直りできるだろう。
F 彼女が参加するというのなら、僕はスケジュールを変更してでも参加する。
このように、「否定」を二回重ねると「肯定」になってしまうのです。ところで、負の数を三回掛けたらどうなるでしょう? 「負」になりますよね? ならば、ちょっと話が脱線してしまうのですが「三重否定はどうでしょうか?」
G 僕はカボチャが食べられない。(食べられない=否定)
H 僕はかぼちゃが食べられなくはない。(食べられる=肯定)
I 僕はかぼちゃが食べられなくはないとは言えない。(食べられないかもしれない=否定)
やはり負の数の計算同様にマイナス=「否定」になりますね。四重否定や五重否定はややこしくなるだけで意味は感じられませんけどね。
話を戻します。この「二重否定」はどんな目的がある表現なのでしょうか? おそらく、それは、
1.含みを持たせるための表現。
2.やんわりと伝えるための表現。
3.「完全な肯定ではない」ことを伝えるための表現。
なのだろうと言えると思います。どれも日本語の持つ「機微(内面的な微妙な心の具合や事情)」を働かせるためです。私は、こんな深い日本が好きです。でも、逆から言えば、論理性が求められる場面ではこの二重否定の表現はは使わない方がいいでしょう。誤解が発生する可能性があるからです。
ところで、時々、二重に「可能」を被せる表現を耳にすることがあります。「二重可能」? 先日、テレビのアナウンサーが使っていました。
「ただ今、このクーポン券を3枚集めるとお楽しみグルメセットをもらえることができるそうです。ぜひ、みなさん。どんどん御応募なさってください」
はあ? これは明らかに誤った表現ですよね。アナウンサーさん、やめてちょうだい!!