「曖昧表現・簡略表現を考える」 | はぐれ国語教師純情派~その華麗なる毎日~

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国語教師は生徒に国語を教えるだけではいけない。教えた国語が通用する社会づくりをしなければ無責任。そう考える「はぐれ国語教師純情派」の私は、今日もおかしな日本語に立ち向かうのだ。

 ある小学校のプールの柵に看板が設置されてありました。看板には、

 

「立ち入り禁止 許可なく使用を禁止します」

 

と書かれてありました。

 深夜、勝手に泳いだり、プールサイドで花火をやったり、バーベキューをしたり、はたや洗濯をしたりとか……。世の中には常識や道徳、マナーに欠如した人がたくさんいるようです。また、小さな子どもが勝手に泳いで、事故などが発生しても大変です。だから、こうした看板は大切だと思います。

 でも、この

 

「許可なく使用を禁止します」

 

という表現はちょっとおかしいです。

 

「許可なく使用することを禁止します」

「許可なしの使用は禁止します」

 

 あるいは、

 

「無許可での使用を禁じます」

 

などが文法的に正しく、相手にも伝わりやすい表現だと考えます。簡潔さを求めるあまり、不正確な表現をしてしまってはいけませんね。

 

 石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」という有名な歌があります。一番の歌詞(抄)はこうです。

 

北へ帰る人の群れは

誰も無口で

海鳴りだけを きいている

 

 この歌詞のおかしいところはどこでしょう? まず、主語は「群れは」ですね。そして、述語が「きいている」です。「無口で」は「聞いている」の連用修飾語です。したがって、「群れは無口だ」という主語・述語の関係も成り立ちます。

 「群れは聞いている」って、おかしな日本語です。「群れをなした人々は聞く」とか、「群れをなして聞いている」とかならわかります。次に「誰も無口で」もだめです。「誰もが無口で」とすべきではないでしょうか?

 でも、どうしてこんな具合になってしまうのでしょう? 多分、それは音符の数に歌詞の音数を合わせなければいけないからなのではないないでしょうか? 歌詞より先に曲ができてしまっているため、作詞家さんは四苦八苦してこんな変な日本語を書いてしまう。→それでもヒットしてしまう。→日本語が乱れる。……困ったものです。

 

 こんな具合に、私たちの周りにはずいぶんと説明困難な表現があります。その一つには慣例的な送り仮名の省略ということも指摘できます。でも、それについて学校の授業では明確に触れないんです。どうしてなんですかね? 

 もし漢字テストでなら、

 

「苦情をウケツケル」→「苦情を受け付ける」

 

です。「苦情を受付る」と書いたら×です。でも、「卒業式のウケツケ」という問題であれば、「受付」を×にはできないでしょう。これについての生徒への説明が国語教育では手薄です。それが気持ち悪いのです。早くはっきりさせて生徒諸君に説明してあげたい、そう思います。