短歌で詠う百名山 44 筑波山 「万葉集編」

大変に恐縮ですが、ネットで万葉集の筑波山の歌を調べたら、いきなりどーんと、出ておりまして、これはその先に研究された内容をいただくしかありませんので、引用して、私も学びたいと思います。
しかし、富士山の歌も、このようにして調べたら出てくると思いますので、「万葉集に学ぶ山の歌」編をいずれ構成してみようかと思います。いや凄い!

《「筑波山に登る歌:万葉集を読む
筑波山は、常陸の国のシンボルであるとともに、東国の山岳信仰の中心地であった。二つの頂をもち、それぞれを男峰、女峰と呼び、男女の神として広い地域で信仰された。その筑波山に、常陸の国の役人として赴任した高橋虫麻呂は何度か登ったようで、筑波山に登った様子を詠った歌が万葉集の巻九に収められている。

まず、検税使大伴卿の筑波山に登りし時の歌。この大伴卿が誰をさすかは特定できないが、大伴氏の一族に属するもの、宿奈麻呂、潔足、牛のうちの一人だろうと思われる。その人が中央政府の検税使として常陸の国にやってきたときに、筑波山に登ることを強く希望した。そこで常陸の国の役人をしていた虫麻呂が、大伴卿を案内して筑波山に登り、その折の感慨を長歌にこめて詠った。

  衣手常陸の国の 二並ぶ筑波の山を 
  見まく欲り君来ませりと 暑けくに汗かき嘆げ 
  木の根取りうそぶき登り 峰の上を君に見すれば 
  男神も許したまひ 女神もちはひたまひて 
  時となく雲居雨降る 筑波嶺をさやに照らして 
  いふかりし国のまほらを つばらかに示したまへば 
  嬉しみと紐の緒解きて 家のごと解けてぞ遊ぶ 
  うち靡く春見ましゆは 夏草の茂くはあれど 
  今日の楽しさ(1753)
   反歌
  今日の日にいかにかしかむ筑波嶺に昔の人の来けむその日も(1754)

衣手の常陸の国の、男女二柱の神がやどる筑波の山を、大伴卿が見たいといわれるので、暑い中を汗をかきつつ、木の根をつかみながら必死に登り、頂上に登って君に案内さあしあげた。すると、男神も許したまい、女神も霊力を現されて、いつもは雨が降っているこの山の頂を照らしなされて、どう見えるか気がかりだった国の名所を、はっきりと示したまわれた。嬉しさで紐の結び目もほどけ、家にいるような気持ちでくつろいだ。霞のうちなびく春に見るよりも、夏草が茂る今日のほうが楽しいことよ。
反歌のほうは、今日の日に及ぶ日があろうか、昔筑波山に人が登ったというその日に比べても今日のほうがいっそうすばらしい、という趣旨。
夏草云々とあることから、この登山が夏の盛りのことだったことがわかる。夏は春に比べれば、天気が安定しているので、山頂からの展望もよかったのだろう。その展望のすばらしさを、さりげなく歌い上げている。一首のミソは、その素晴らしさが、山の神様の賜物と詠うことで、それを通じて、人々の山岳信仰に敬意を表するとともに、中央の役人の国見ぶりをたたえているわけであろう。虫麻呂は抜け目のない人だったようだ。
次は、虫麻呂が単独で登ったらしい筑波山登山の様子を詠ったもの。

  草枕旅の憂へを 慰もることもありやと 
  筑波嶺に登りて見れば 
  尾花散る師付(しつく)の田居に 雁がねも寒く来鳴きぬ 
  新治の鳥羽の淡海も 秋風に白波立ちぬ 
  筑波嶺のよけくを見れば 長き日(け)に思ひ積み来し 
  憂へはやみぬ(1757)
   反歌
  筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな(1758)

草枕旅のつれづれを慰めることもあろうかと、筑波山に登ってみれば、尾花の穂が散る師付の田のあたりでは雁が寒い中を飛んできて鳴き、新治の鳥羽の沼には秋風に白波が立ち、筑波山のすばらしい峰を見ると、長い間積もっていた憂鬱な気分も晴れてしまった。
反歌のほうは、筑波山のふもとの田んぼで稲刈りをする娘に贈るためにもみじの葉を手折ろう、という趣旨。
これは、秋に筑波山に登ったときの歌だろう。山の頂から、麓の風景を俯瞰することで、気持ちがすっきりしたとうたっている。
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筑波の歌垣:万葉集を読む

高橋虫麻呂には、筑波山の歌垣を詠んだ歌がある。「筑波嶺に登りて嬥謌會(かがひ)を為る日に作れる歌一首併せて短歌」がそれである。歌垣とは、筑波地方に古くから伝わる風習で、常陸の国風土記にも記されている。その歌垣を虫麻呂は、民間風俗を紹介するようなタッチで描いている。そこからして、歌としての面白さには欠けるという指摘もあるが、古代の風習を生き生きと描写していることには、貴重な意義があると言えよう。

  鷲の住む  筑波の山の  裳羽服津の  その津の上に  
  率ひて  娘子壮士の  行き集ひ  かがふかがひに  
  人妻に  我も交らむ  我が妻に  人も言問へ  
  この山を  うしはく神の  昔より  禁めぬわざぞ  
  今日のみは  めぐしもな見そ  事もとがむな
   反歌
  男神に 雲立ち上り しぐれ降り 濡れ通るとも 我れ帰らめや

鷲が住む筑波の山の、裳羽服津(もはきつ)の津の上で、声をかけあって集まってきた若い男女が、集いながら歌い踊る夜には、人妻に私も交わろう、私の妻ともだれか交われ、この山を治めている神様も昔から許していることだ、今日だけは女を哀れと思うな、男にも目くじらを立てるな。
反歌の趣旨は、男峰の上に雲が立ち上り、時雨がふってずぶぬれになっても、どうして帰ることがあろうか、いつまでもここに残って女と交わろう、という趣旨である。
長歌からも短歌からも、男女の乱交を肯定的に歌い上げ、性の喜びを謳歌するさまが伝わってくる。こうした乱交パーティが、古代日本の一部では、公然と行われていたわけであろう。筑波山に限らず、東国の広い範囲で行われていたらしいが、筑波の歌垣が、万葉集の歌や常陸国風土記の記述が作用して、歌垣の象徴的なものとして有名になった。

なお、筑波山の歌垣について触れた、常陸国風土記の一部を紹介しておきたい。

「夫れ筑波の岳は、高く雲に秀で、最頂は西の峰崢嶸しく、これを雄の神と謂ひて、登臨らしめず。但し東の峰は、四方磐石にして、昇り降りさがしく、其の側に流泉ありて、夏冬絶えず。坂より已東の諸国の男女、春の花の開ける時、秋の葉の黄づる節、相携ひつらなりて、飲食をもたらし、騎より歩より登臨りて、遊楽び栖遅(いこ)へり。其の唱に曰はく、
  筑波嶺に 会はむと 云ひし子は 
  誰が言聞けばか み寝会はずけむ
  筑波嶺に 廬りて 妻無しに 
  我が寝む夜ろは 早も明けぬかも

詠へる歌甚多くして、載車するに勝へず。俗の諺に云はく、筑波峰の会に娉の財を得ざれば、児女とせず、といへり」

ここでは、せっかく歌垣の場にやってきても、性交の相手が得られなかった女性は、一人前ではないと批判されている。とにかく、歌垣の場では、独身者も既婚者も、名分をわすれて乱交すべきだという、おおらかな雰囲気が伝わってくる。
歌垣についての民俗学的な解釈は、これが大古の乱婚の名残だとするものを含めて、いろいろとあるが、ここでは触れない。》
筑波山(つくばさん)を詠んだ歌
常陸国風土記にも記述されているように、筑波山は歌垣(うたがき/かがい)の場として知られています。(歌垣は、男女が歌をやりとりし互いの相手を見つける集いです)。この歌垣を詠んだ高橋虫麻呂の長歌(巻9-1759)が知られています。
0382: 鶏が鳴く東の国に高山はさはにあれども.......(長歌)
0383: 筑波嶺を外のみ見つつありかねて雪消の道をなづみ来るかも
1497: 筑波嶺に我が行けりせば霍公鳥山彦響め鳴かましやそれ
1712: 天の原雲なき宵にぬばたまの夜渡る月の入らまく惜しも
1753: 衣手常陸の国の二並ぶ筑波の山を.......(長歌)
1754: 今日の日にいかにかしかむ筑波嶺に昔の人の来けむその日も
1757: 草枕旅の憂へを慰もることもありやと筑波嶺に.......(長歌)
1758: 筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな
1759: 鷲の住む筑波の山の裳羽服津の.......(長歌)
1760: 男神に雲立ち上りしぐれ降り濡れ通るとも我れ帰らめや
1838: 峰の上に降り置ける雪し風の共ここに散るらし春にはあれども
3350: 筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも
3351: 筑波嶺に雪かも降らるいなをかも愛しき子ろが布乾さるかも
3388: 筑波嶺の嶺ろに霞居過ぎかてに息づく君を率寝て遣らさね
3389: 妹が門いや遠そきぬ筑波山隠れぬほとに袖は振りてな
3390: 筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに
3391: 筑波嶺にそがひに見ゆる葦穂山悪しかるとがもさね見えなくに
3392: 筑波嶺の岩もとどろに落つる水よにもたゆらに我が思はなくに
3393: 筑波嶺のをてもこのもに守部据ゑ母い守れども魂ぞ会ひにける
3394: さ衣の小筑波嶺ろの山の崎忘ら来ばこそ汝を懸けなはめ
3395: 小筑波の嶺ろに月立し間夜はさはだなりぬをまた寝てむかも
3396: 小筑波の茂き木の間よ立つ鳥の目ゆか汝を見むさ寝ざらなくに
4367: 我が面の忘れもしだは筑波嶺を振り放け見つつ妹は偲はね
4369: 筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹ぞ昼も愛しけ
4371: 橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を恋ひずあらめかも
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改めて思うのですが、古の日本人って、レベルが高くないですか。特に東歌の中の筑波山を詠う歌を見たわけですが、当時の漢字が書けるだけでもすごいと思うのですよ。
一つの詩であり、感情を文学的に表現する技術ですからね。さらに長歌と反歌の様式を発明したわけです。
人間観感情と、自然に対する感情というのが豊かであると思うのですね。万葉集を編んだことに、一つの発想がある。世界にも、このような形態の詩集はないと思う。物語はあるけれど、やはり、我々のご先祖様は、よその国とは異なる発想をすると思える。
古事記や日本書記などは、中国王朝との関係で、求められたものだが、万葉集は、中国には渡って朝鮮にも及んでいないと言える。
日本語の特異性が、このような詩形を生み出したともいえるかもしれませんが、日本文明の独自性を表すものの一つであるかもしれない。その根源は、日本自然形態が、朝鮮半島や大陸とまったく異なる、日本列島誕生に由来するのではないだろうか。

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それと今一つ、歌垣の場が、男女の出会いの場であったとか、おおらかな風情があったというか・・・、

<このような形態の詩集はないと思う>、同感です。

つまり、これが《文化の受容と創造》の原型だと思うのです。

五言絶句・七言絶句の中国の詩形、韻を踏むという約束事があるけれど、日本は漢字を利用するけど、音訓読みを発明し、日本化するし、ひらがな・カタカナを発明するし、とくに、テニオハのの発明は、日本語を論理学的に発展させる可能性を生み出した。

中国語のもつ性格が、西洋的な論理学の発展を拒んでいると言えるでしょう。これはまた別の課題だが,長歌にたいする返し歌としての反歌という形態を生み出されたのは、日本だけの詩形です。

文明的な辺境地というのは、むしろ「創造」力に富むと言ってよいかもしれません。

「万葉集」自体が特異な文化形態です。それは土偶の文化形態を言葉に変えたものかもしれないですね。