世をそむく宿には深きあやめ草心のとまる妻となりけり
 

前回、この「そむく」の意味で、止まってしまいましたが、Copilotを利用して、意味が分かった。

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世をそむく宿: 世間から遠ざかる宿
あやめ草: アヤメの花。美しさと儚さを象徴する花で、恋愛の詩でよく使われます。
心のとまる妻: 詠み手の心を引きつける妻
この句は、自然と人間の感情を結びつけ、美しさと切なさを同時に表現しています。
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Copilotを利用したら、理解できた。
世をそむく宿→「出家した庵に」の意味になり、
深きあやめ草→アヤメの花。
*「世を捨ててすむ庵の庭に咲くアヤメ草がこれから寄りそう妻になる」
というように解釈できますね。拾玉集の慈円の歌ということまでわかりました。


拾玉集 (しゅうぎょくしゅう)
慈円の家集で,鎌倉最末期から1346年(貞和2)にかけて青蓮院(しようれんいん)尊円親王が集成。同親王の命により慶運が編纂したともいう。六家集の一つで,5巻本(5917首)と7巻本(流布本,4613首)とがある。前者には青蓮院本ほかの善本が存し,和歌の配列はほぼ年代順で,慈円の全歌集にちかい。歌風は平易な詞を用いてのびやかであり,新しい趣向を好んで仏教的な述懐歌に特色がみられる。執筆者:赤瀬 信吾
慈円
[1155〜1225]鎌倉初期の天台宗の僧。関白藤原忠通の子。九条兼実の弟。諡号 (しごう) は慈鎮。天台座主 (ざす) 。「愚管抄」の著者。家集「拾玉集」がある。吉水の僧正。

「宿」という言葉で、慈円の歌とは異なる俗世の歌一首
人も見ぬ宿に桜をうゑたれば花もてやつす身とぞなりぬる

和泉式部の勅撰和歌集後拾遺和歌集101-春上
多分同じ情景とでも言えそうな歌に思えます。

同じような「宿」ではあるけれど、和泉式部の歌も「やつす身とぞなりぬ」とは、「世をそむく」に似たる「宿」のありかたかも・・・・


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だんだん時代が先に進んで、一人残されていく気配を感じる昨今、死をまじかに意識することも強くなる。60を過ぎて30年生きるのはつらいかもしれない。社会のシステムが、30年3サイクルに見合うようにはできていないのだと思う。社会の仕組みと人間が長く生きられる状況になったこととのずれがあるかも。

今日の夕方、NHKのニュースで、お金の勉強について報道していた。お金について小学校や中学で学ぶことは、時代の要請であると思える。2世代60年の人生を前提にした社会設計と、3周り90歳を前提としたシステムでは大きく異なると思う。

60過ぎてから、金で苦しむのは『地獄』に落ちているに等しい・・・・?