中国の経済は、なるようにかならないのでは。人の制御できる領域を超えているかもしれないですね。

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中国経済ガチカウントダウン!政府系ファンドの無理やりな買い支えには限界アリ!?「優等生」の香港でも10大住宅団地で、春節連休中に販売ゼロのガチのヤバさ!?|

上念司チャンネル ニュースの虎側  

 

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上念氏の中国情報はオーソドックスなニュース元からの話ですから、一緒になって笑っていられます。

基本的に中国は『生真面目』ではないです。もうそれは性分と言ってよいでしょう。

資本主義の真似をして市場経済の形態を創り出しながら、「市場」の「自由」を壊している共産党ですから、経済が西側諸国のように回るわけがなく、いかにも中国らしい形での混乱を招くだけだと思うのです。その原因は、中国人の「不真面目さ」によるでしょう。その原因を創り出したのは、孔子様でしょう。

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私がいつも取り上げる「論語・子路編18」葉公との正直問答です。

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『論語 子路篇』の書き下し文と現代語訳:2 (esdiscovery.jp)

[白文]18.葉公語孔子曰、吾党有直躬者、其父攘羊、而子証之、孔子曰、吾党之直者異於是、父為子隠、子為父隠、直在其中矣、

[書き下し文]葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰く、吾が党に直・躬(ちょくきゅう)なる者あり。その父、羊を攘みて(ぬすみて)、子これを証す。孔子曰く、吾が党の直き者は是れに異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きことその中(うち)に在り。

[口語訳]葉の君主が孔子に自信満々に語って言った。『私の治める郷土に、正直者の躬という人物がいる。躬の父が羊を盗んだときに、躬は正直に盗みの証人になったのである。』。孔子は言われた。『私の郷土にいる正直者はそれとは違います。父は子のために罪を隠し、子は父のために罪を隠す。本当の正直さはそういった親子の忠孝の間にこそあるのです。』
[解説]孔子は、『修身・斉家・治国・平天下』という順番で社会秩序は確立されると考えており、家庭道徳の根本にある『親子の忠孝』をもっとも重要な徳性としていた。葉公が自信ありげに父親の窃盗罪をも隠さずに証言した正直な青年について語ったところ、孔子は『真の正直さ』とは『父・母を守りたい、子を守りたいという情愛』の中にこそあると語ったのである。正直さを判定する軸が、『客観的な事実(葉公)』と『主観的な情緒(孔子)』とに分かれているところが面白い。

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論語の解釈で、これを批判的に書いているものには出会わない。私は悩みましたよ。法を守ることと、親父の罪を隠すことと、これキリスト教的なンさ罪の意識があったら、どうなるでしょうか。孔子にはありません。「悩みも、迷いも」なく、「孝」の価値観を取ります。

近代化へは、血縁を第一にしていては、ジャンプできないのです。少なくともこれは両立する答えを見つけない限り、正直者は息子の方で、否定されるべきではない。「法が守られない社会の原点」がここにあると思います。ノーベル賞の受賞者が科学の分野でいないのは、「客観性」を重視しないし、技術を盗むのも許されるのです。

 

政治も建前が通ればよいので、GDPの統計が嘘だとしても身内のためには許されるのです。

これはユダヤ人の二重倫理と同じ構造を持ちます。宗族という血縁関係がもっとも大事で、身内と外とには倫理観が違うのです。その痕跡が強く行動になっているのが中国の文化であるし、彼らの社会的行為の特徴でもあるわけです。腐敗は永遠に消えない文化です。

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マルクスは19世紀の人で資本主義を悲観的に見て、未来に被支配者の国を夢見た。

ウェーバーは、近代資本主義を『鉄の檻』ととらえて、20世紀以降の世界には、悲観的な世界を見ていたかもしれないが、新たな預言者が現れるかもしれないと、その後の時代の人々に委ねている。

マルクスもウェーバーも、またマーシャルやケインズだって現代の状況など想像もしていないだろう。情報産業が新たな次元へと人間の社会を変えている。だから、現代の事態の中で、歴史の動きと同時的に、過去に成であろう『今』を自分の言葉で語る人が必要なのだ。

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セルジュ・ラトーシュの『脱成長』(文庫クセジュ)p114

資本主義的経済発展の台頭と経済成長社会の成立によって、人々は、進歩と経済の想念の制度化を目指すイデオロギー的かつ疑似宗教的な性質を帯びた心性(マンタリア)に改宗させられた。「想念の脱植民地化」が含意するのは、真逆の過程、すなわち社会のソフトウェアーないしはパラダイムの変革、さらには真の革命――なによりも文化領域における革命――である。しかし、それだけではない。別の言い方をすると、経済から抜け出すこと。様々な価値をかえること、したがって我々の生活様式の転換を始動・推進するために我々自身が脱西欧化することが重要であ。》

115頁に書かれていること、「教育」について、「より正確に言えば再教育は、社会的lことを過程としてのみ存在し、我々を消費依存症から解放し自立共生的でエコロジカルな市民権を獲得することを可能にする。》

「消費主義からの解毒」を進めるプロセスが必要だと説く。

 

このラトーシュのいう「経済から抜け出せないようにしていたのは誰だ?」、現代人に「魔術をかけていたのは誰だ?」と言われたら、「下部構造が経済で、それによって上部構造が変わる」と『成長主義信仰』を言い出したのは預言者カール・マルクスに他ならない。彼の信仰を受け入れた国がどうなったか?その最たる事例がロシアであり、中国なのだが、他の社会主義国に共通するのは、《専制国家》にほかならず、マルクスの描いた共産主義国は彼を信仰した国には実現していない。

ラトーシュは、もっと過激だ。『我々自身が脱西欧化すること』だという。

マルクスの呪縛から逃れることでしょうね。下部構造と上部構造の諸価値は、マルクスが想定したことではないということだ。21世紀はマルクスの呪術から逃れる時代となるでしょう。発展段階説も下部構造論も、階級闘争論も「搾取論」もすべてが「呪術」なのです。彼は間違いなく『幸福の預言者』でしたが、その結果は、パラドクスとなって、思いと結果は真逆になりました(なるでしょう)。

マルクスは確かに偉大な革命家であったかもしれないが、結果としては、世界に不幸な結果をもたらすだけになっている。私はそう思っています。マルクスは資本主義の分析を間違えたのです。なぜか、「弱者救済の願い」が強かったから・・・、今一つは、ブルジャジーへのルサンチマンかも・・・。