本をなるべく効率よく知るには、年よりのずる賢さで、アマゾン書評を読むことにして、内容を知ることを覚えて、いま話題の斎藤氏の本をとりあげたら、その書評のなかで柿埜真吾著の、斎藤批判の本を知り、両方を並べてアマゾンのすべての書評をみることで、正月の夜を過ごすことに。

このアマゾンの書評を書く人は、プロみたいな人もいて面白いです。一例をあげます。

人新世の「資本論」 (集英社新書) 新書 – 2020/9/17斎藤 幸平 ()

「冷やしたぬき」さんの書評は辛口です。でもきちんと読まれている。

『この著者は「100de名著」に起用されたことで一気に全国的に知名度(とおそらくは信用度)も一般には上がったことだと思う。しかし、NHKの「地球温暖化についての一連の番組」は意図はよく分からないものの事実をNHK側に都合よく切り貼りした代物で、信頼性については相当怪しいものである。そのNHKがこの著者を起用したのは悪い意味で首尾一貫しているが、くれぐれも「NHKEテレ)が起用しているから信用できる」などとは決めつけず、できるだけ自分で一次データに遡って考えるようにしてほしい。

上記のように本書があたかも自明であるかのようにしている前提条件がおかしいので「解決するには『資本』がキーだ」などというのはもう論ずるには値しないことははっきりしていると思う。

3/16追記>(前段に長い批評がされていますが、最後の部分だけ引用すると・・・)

本書が自明の前提としている「気候変動」に関して、その方面の専門家のレビューを待っていたのだが、どうも出てこないようである。専門家にとっては本書の最初の方を読んだだけでもうレビューにも値しないと判断するからだろうか?

高評価レビューは当然として、低評価レビューでも「前提や問題意識は正しいが解決策が具体性に欠ける」とか「マルクスを持ち出す必然性がない」というのが殆どであり、「前提や問題意識」それ自体を問題とするレビューはなくはないが、残念ながら詳細には書いていない。ということで、本来は私の守備範囲外(主な分野は哲学)なのだが、自分で調べた結果を書いておこうと思う。

まず、本書が自明の前提としているところを整理すると

A 地球は異常な温暖化に向かっている最中である

B Aの原因は人為的なCO2濃度の上昇が原因である

C 従って、人為的なCO2濃度を減少させることにより異常な温暖化を防止することができる

簡略化すれば以上のABCということになるだろう。

そしてこのキーは「地球温暖化の主犯は人為的なCO2濃度による」というものである。これは「肯定派」と言われている。一方、そもそもAに対しての疑問を含め、「地球温暖化の原因は人為的CO2濃度ではないのではないか?」という見解がある。これは「懐疑派」と言われている。

「肯定派」はIPCCおよび各国の政策決定のバックボーンとなっている科学者が中心であり、彼らは「懐疑派」に対して「懐疑派バスターズ」を結成して攻撃、論破しようとしている。

「懐疑派」が提示している論点は多岐にわたるが、私が具体的論点で特に重要と思うのは

20世紀前半において、気温上昇とCO2濃度の関係は「気温は急上昇しているのに、CO2濃度の上昇はなだらか」となっている。「CO2濃度が気温上昇の主犯」であるならCO2濃度も急上昇しなければならないはずなのにおかしい。

・16万年にわたる気温変動とCO2濃度の関係を見ると、「気温上昇が先でCO2濃度の上昇が後」になっている。これはIPCCの第4次報告書でIPCC自ら認めている。これは「CO2主犯」と相容れない。

の2点。1番目については「懐疑派バスターズ」の主要メンバーで日本での旗振り役の江守正多氏も「人為起源強制力、自然起源強制力、自然変動の組み合わせであると考えられます」とし、少なくとも「CO2濃度上昇が主犯」とは言えないと認めている。

そして私が「肯定派」に対して疑問なのは、なぜ「懐疑派バスターズ」なのか、ということである。これは「肯定派」側でのメーリングリストの名前がそうであったことから付けられているが、「懐疑」を「バスター(=退治)」というのがおよそ科学者の態度ではない。この「懐疑派バスターズ」という名称は便宜上付けられたものという弁解があるが、それこそ無意識下に「懐疑など許さない」ということが表に出てしまっただけだろう。これでは科学の論争ではなく宗教裁判、異端審問である。

古来より「天動説vs地動説」をはじめとして「絶対の真実」と思えたことがその後否定されるということは科学史では何度もある。無論、これは「確かなことは何もない」ということではない。常に「新しい理論・実証データによって今までの常識は覆される可能性がある」ということである。

それからすると、彼ら「肯定派」の態度はおよそ科学的とは言い難い。日本政府もIPCCの見解はそのまま正しいことを前提としているし、NHKをはじめとする各マスコミも右へならえし、「懐疑派が未だに存在するのは日本だけ」というような日本人の「海外コンプレックス」「国際機関信仰」を利用するような論調(もう少し「国際機関」には慎重であってよい。IPCCなど「日本学術会議」が可愛く見えるほどに政治的な団体である)であるので、一般に「地球温暖化は人為的CO2濃度の上昇が原因であり、CO2濃度を下げれば温度上昇は止まる」ことは揺るぎない真実と受け取られてもしょうがないかもしれない。しかし、本書の著者は「気候変動」を課題の正面に据えた以上は、「懐疑派」について何らかの説得力ある論証を示すべきであるのに、それが一切ないのは全く粗雑としか言いようがない。「私は経済学が専門なので気候学については世間一般に信じられていることを採用した」というのであれば、有力な反論があるのにそれを無視するぐらいなら、「気候変動」など持ち出さず、「マルクスの祖述」だけをすべきだ。そして本書の巧妙な(狡い)ところは、「IPCCへの批判」も入れていることで、「IPCCを妄信しているわけではないですよ」と言外に言っているところである。

最後に、前述の整理で言えば百歩譲ってAとBが成り立ったとしてもCが成り立つとは言えないことを指摘しておく。これは16万年のスケールで気温変動を見れば誰でも分かることだと思う。

また、IPCCについては「クライメートゲート事件」について、知らない人は調べてみるといいと思う。これも「懐疑派バスターズ」によって「問題など何もなかった」ということになっているが。』

→こういう辛口の批判好きだな。マルクスを現代に再生しようと言う試みなので、イデオロギーから離れて、学問的にまるくすを捉えることが、できるようになった、と著者は「大洪水の前」で述べているので、それを良しとして、関心をもったが、気候変動を取り上げて、自然との関係でまるくすを論じるような立ちを見つけて、グレタを持ち上げていると思うが、私から見ると、ポイントが違うように思う。要するに、自然との関係と弱者の救済・格差の是正という問題とどのように関連付けるのか、と言うと、「資本主義が悪い」論にたちもどるのではないか。

時流に乗っての話題作りになってしまう。

マルクスの生きた時点での、彼の世界の捉え方、そのような研究がされているにも関わらず、論点がズレていくのかな。私は斎藤氏の研究を知って、マルクスを「幸福の予言者」に仕立てたのがレーニンだったが、斎藤氏はマルクスを「禍の予言者」読み換えることにしたのかな、と思った。「学者の立場」にたつか、デマゴーグの立場に経つかの自覚の問題になる。ちょっと「これは、いけるかな!」という期待を持たせる若手の一人だが、彼が「職業としての学問」をどのように捉えていくのかを見ていくとする。

次に、斎藤氏を批判すると言う本の批評です。

自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠 (PHP新書)

柿埜 真吾 

レポート 音楽好きの学生5つ星のうち1.0

悪意を感じる…2022531日に日本でレビュー済み

学生です。本のラベルと、この本の説明文からとても悪意を感じました。イジワルな感情がすごく伝わってくるし、本を読むだけなのに心がズキズキしました。

斎藤氏の本をマルクス主義と言って、世間の人達に斎藤氏の本はマルクス主義の本なんだと思い込ませてるのかなと思いました。実際は斎藤氏自身もマルクス主義じゃないときちんと説明してたのにロシアや中国の全体主義は失敗したではないかと本の説明に書いてあったのですが、それも斎藤氏が、全体主義は失敗したからそれではダメなんですってちゃんと説明してたし我々学生でも、え?違うくない?って引っかかりました

なんかこの本の著者は、自分の意見とは異なる斎藤氏の意見が気に食わなくて反論したいだけで、結局は自分の理論を展開してるだけです。2人とも別のこと言ってるからそもそも反論じゃなくて、別の話でよかったのに、わざわざ斎藤氏の印象を悪くするような書き方、特に出版社かな?ラベルや本の説明で斎藤氏を陥れるというかいじめてるというかなんか悪意を感じて大人って性格悪いなぁって改めて思いました。特に、斎藤氏が強調しているマルクス主義との違いや、共産主義との違い、むしろそれじゃダメなんだという部分を、無かったことにして、斎藤氏の本を、共産主義、社会主義、マルクス主義を推し進めた本みたいに単純化して、悪印象を与えてるのがすごく見苦しいです。読めてないということは無いと思うからたぶんわざとそういう性格の悪いことをしてるのかなと思います。反論という形ではなく、ただ自分の意見として本を出した方が良かったと思います。うんざりしました

→読み方が浅いかな。

レポート コナン.O.5つ星のうち3.0

『人新世の「資本論」』への反論であると同時に、(逆説的に)ポスト資本主義を実現するために、我々はどのような価値観を転換させる必要があるのかを明らかにしてくれる。

柿埜真吾(1987年~)氏は、学習院大学文学部哲学科卒、学習院大学大学院経済学研究科修士課程修了、立教大学兼任講師等を経て、高崎経済大学非常勤講師。

本書は、副題にある通り、斎藤幸平氏のベストセラー『人新世の「資本論」』(2020年9月)が唱える「脱成長コミュニズム」を全面的に否定し、反対論を述べたものである。

本書の主旨は、『人新世~』出版以降、少なからぬ知識人が「コロナ禍や気候変動が起きたのは、人間が分を超えて際限ない経済成長を追い求めたからだ。これからは脱成長で、環境に配慮した慎ましい暮らしをしなければならない。グローバル化と自由市場経済は破綻した。民主主義は強権体制に敗れた。」と考えているが、それらは全て偽りであり、「資本主義文明が達成したこれまでの成果は想像もしなかったような素晴らしいものだった。よりよい未来を目指して、資本主義文明のもたらした、開かれた社会への道を引き返すのではなく、さらに進むべきである。」というものである。

そして、序章:脱成長というおとぎ話、第1章:経済成長の奇跡、第2章:前近代の閉じた社会の道徳、第3章:なぜ資本主義は自由と豊かさをもたらすのか、第4章:社会主義は反動思想、第5章:資本主義の完全勝利に終わった20世紀の体制間競争、第6章:理想社会建設の末路としてのソ連、第7章:新しい隷属への道~『人新世の「資本論」』批判、という構成で論を進めていくのだが、(社会主義の)歴史についても、資本主義のメリットについても、大半の内容は既知のことであるし、ある意味同意もできるものである。

私は、『人新世~』を読む以前から、ピケティが『21世紀の資本』でも論じた「格差」に対する問題意識をきっかけに資本主義に疑問を持ち、ジョセフ・E・スティグリッツの著書、広井良典の『ポスト資本主義』、(近著の)『無と意識の人類史』、大澤真幸の近著『新世紀のコミュニズム』なども読んできたが、本書を読了してもなお、我々が向かうべきは、資本主義をさらに推し進める方向ではなく、それに歯止めをかけ、(歴史の失敗にも学びつつ)コミュニズム的な発想を取り入れる方向だと思うのだ。→その通りです)

   ↓

問題はポスト資本主義ではなく、社会主義的な思想や「自然との調和」をどのように合理的な資本主義のシステムの中に組み込むか、と言うことなのだ。マルクスをもし、現代や未来に活かしたいならば、なんの為の「共産主義」なのかの本質を実現すべきであって、権力争いの道具ではないだろうに。

イエスは地上の矛盾を肯定した。その矛盾から人びとの魂を救うための神の言葉の預言をしたのだ。

斎藤氏の功績はマルクスをイデオロギーから解き放つことであったが、いまだ不十分なのだと思う。そのように私には見えてきた。私は成長は必要だと思っています。「脱成長論」は先進国だからできる話ですが、それでも、「適正成長」はシステムを維持するために必要なのです。

マンションの改築の積立金を積むのと同じだと思いますよ。

    ↓

資本主義だけ残った――世界を制するシステムの未来 単行本 – 2021/6/18

ブランコ・ミラノヴィッチ (), 梶谷  (その他), 西川 美樹 (翻訳)

レポート コナン5つ星のうち4.0

資本主義の未来を考える上では一読の価値ある一冊。

2022215日に日本でレビュー済み

私は以前より、世界に広がる格差の元凶である資本主義に問題意識を持っており、これまでも、ジョセフ・スティグリッツ、水野和夫、トマ・ピケティ、斎藤幸平、広井良典等の多数の著書を読んできたが、本書を手に取ったのもその流れによる。
本書の概要は概ね以下である。

◆資本主義は、我々の世界に、営利を目的とするという、共通の価値観・ルールを生み出すことに成功した、最も安定した社会経済システムである。現在の世界の資本主義の体制は、欧米諸国の「リベラル能力資本主義」と中国に代表される「政治的資本主義」に分けられる。「リベラル能力資本主義」は、民主主義と法の支配に結びつき、技術革新を奨励し社会的移動性をもたらすことで経済の発展を促し、かつ万人に概ね平等の機会を与えると考えられている。一方、「政治的資本主義」は、政治的エリート層を惹きつけるとともに、高い成長率を約束するかに見える。
◆「リベラル能力資本主義」は、第二次世界大戦後の「社会民主主義的な資本主義」を支える「4つの柱」となっていた、交渉力の強い労働組合、教育の大衆化、累進性の高い税負担、政府による大規模な所得移転が、次第に機能しなくなった結果生じ、不平等を不断に拡大させることとなった。
◆中国などの後進の被植民地国の多くが社会主義革命を起こしたのは、教条的なマルクス主義が主張するような資本主義の矛盾が原因ではなく、地主に代表される旧社会勢力を一掃し、かつ、外国資本による支配を覆すことができる、唯一の組織化された力が共産主義勢力であったためで、“資本主義的な経済発展を実現するために”社会主義革命が必要だった。こうして成立した「政治的資本主義」の特徴は、テクノクラート的な官僚システムの存在、そのシステムが邪魔されないよう法の支配が欠如していること、民間部門を統制できる国家の存在の3つであり、それ故に深刻な腐敗が生じやすいという矛盾を持つ。
◆「リベラル能力資本主義」と「政治的資本主義」で進行する不平等は、グローバル・チェーンの進化、即ち、モノと資本の移動が自由になり、先進国の工場が簡単に途上国に移転するようになったこと、情報通信技術の発展によって、事細かに国際分業することが可能になったことの2点を通じて有機的に結びついている。
◆様々な問題を孕む超商業化資本主義社会だが、これに代わる社会経済システムはない。資本主義に組み込まれた競争的かつ物質欲的精神を捨てれば、結局は所得が減り、貧困が拡大し、技術進歩が減速・逆転する。物質欲的精神を捨ててもなおかつそれらが維持できるなどと思うのは無理である。
◆「リベラル能力資本主義」がいかに進化していくかについては、資本所得の集中がより少なく、所得の不平等がより縮小し、世代間の所得の移動性がより高くなることにより、「民衆資本主義」に移行できるか否かにかかっている。仮に、「リベラル能力資本主義」が政治的な力と結びつき、金権主義的なものになれば、「政治的資本主義」に似通ったものとなるだろう。
本書の特徴は、何より、中国の社会経済システムを、日米欧諸国の「まともな資本主義」に対する「異形の資本主義」とは位置付けずに、その歴史に基づいた一つのシステムとして分析し、更に、日米欧諸国の「リベラル能力資本主義」でさえ、格差・不平等が拡大し、富裕層が政治的な力と結びつけば、そうしたシステムと似たものになると警鐘をならしていることだろう。
また、私が問題意識を持っている格差の是正については、「リベラル能力資本主義」から「民衆資本主義」への移行がポイントとしており、この点は同意する。(ただ、斎藤幸平氏が論じている地球環境の持続可能性を危うくする(資本主義と不可分の)物質欲的精神については否定していない)資本主義の未来(ポスト資本主義)を考える上では一読の価値ある一冊といえる。

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ブランコ・ミラノヴィッチ(1953年~)は、ベオグラード生まれ、ベオグラード大学博士課程修了、世界銀行調査部主席エコノミスト、カーネギー国際平和基金シニア・アソシエイト等を経て、ルクセンブルク所得研究センター上級研究員、ニューヨーク市立大学大学院センター客員大学院教授。
本書は、2019年発表の『Capitalism, AloneThe Future of the System that Rules the World』の全訳で2021年に出版された。邦訳書では、『不平等について』(2012年)、『大不平等』(2017年)に次ぐもの。本書は、「エコノミスト」、「フィナンシャルタイムズ」、「フォーリン・アフェアーズ」等の雑誌・新聞でベストブックに選ばれている。

  

はっきり言えることは、「近代資本主義」は、もっとも経済システムにおいて最も合理的なシステムであろうと言うことです。それと、道徳・倫理とも結びついた「経営」と持続性のための「計算可能性」と、政治的に安定した「平和」を求めて、かつ人間行動の『自律的自由』を前提にするからです。

斎藤氏は、マルクスをイデオロギーから解き放して「学問の世界」に戻したと言える。次の課題はなにか。

マルクスが生きた時代19世と21世紀の違いのなかで、弱者救済のために、格差や貧困の解消に立ち向かうべきでしょう。そのための研究をしてほしいです。