101506:53:ひとり言

落語「徂徠豆腐」と近代

テーマ 101510:14:日本論 2

*日曜日だけど何もなし。

徂徠に関する本を読む。三冊

*東京ー徳島夜行バスあり、7500円

四国八十八寺巡礼、毎年十一寺回りして、八年かけて回ることを考える。

一年一回で、十一寺を巡礼する。年に二回出来たら四年で回る。お金との相談だ。

*これから毎日、テレビの体操6;25分より行いうことにする。

*般若心経を唱える。毎朝唱えることにする。

*今、野口武彦著の「荻生徂徠」(中公新書)の第一章26pに丸山真男の徂徠の研究の中に、「徂徠はゲゼルシャフト的社会関係を呪詛しながら、彼の作為の立場にはほかならぬゲゼルシャフトの論理が内包されていた」と指摘している。野口はそれを「生産的逆説」と云う。ブログで指摘したことが、指摘されている。

30pに「利」の問題を取り上げる。私がブログでも指摘した徂徠の読み方の部分だ。p30-31の野口の説明は、「論語徴」での説明です。

30pに「徂徠の考えでは、孔子はただ「利」だけをいうことをしなかったのは、先王の道にしたがってことを行えば「利」はその中に得られるンおであり、月19日がつと「利」を求める必要はないからである。孔子は自分に際して定まった命運をしらず、仁行をなすことを忘れてひたすら「利」の追求に走らないように言葉を選んでいたのである。もとより、徂徠は孔子が「利」を否定しているなどとは云っていない。『徴』にははっきりと、「道にして民を利せんずば、また豈に道たるに足らんや」と言い切っている通りである。徂徠がむしろ批判したのは「利」を一概におとしめてしまった後世の儒者の考え方であった。」と書いて、

31pに「徴」の文章を紹介する。p32からp39(注記も含む)は重用です。仁斎と孟子への批判とがかさなる。

36には徂徠の方法的特色として言語的アプローチがある、と野口は指摘する。

野口の徂徠解釈にもよるが、・・・。眠くなった。むずかしいのだ。

ある意味、徂徠の「利」についての考えで、孔子の利を読んだかもしれない。徂徠が考える「利」のあり方で読むと、「利」と「命」と「仁」との関係が、こうあるべきだとして、読んだ。

孔子が「利」について語ること少なし。加地信行「論語」の索引では、

「利」―六、「命」―十四、「仁」―四十三、論語に出てくる。つまり、従来のならべて理解するよりは、徂徠の読み方が正しいと言える。

孔子が利を語るときは少ないが、命と仁とをともに語る。とする方が筋だ。特に「仁」は多く語られている。これは、中國ではそのように今も解釈されているのか?という疑問が湧くが、現状を見ていると変わらない。この徂徠の読み方は、もともと日本人の根底にある「利」への考え方ではないのか、もしそうでなければ、中世時代の商人の行動をみることになる。

*今本棚を整理していたら、中野剛志著「日本思想史新論」の第三章に「荻生徂徠の保守思想」とあるのを見て、とりあげざるを得ない。中野は1946年生まれなんですね。会沢正志斎という人物を知らない。仁斎・徂徠の古学を継いで水戸学の人らしいが、「日本の名著」には取り上げられていない。

中野によると「仁斎」は「愛」を説いたという。改めて勉強します。今日はここまで。

 (*日本から徂徠の解釈の本も中国に送られたようだが、その反応はなさそうだ。)

 

 

10月16日() 午前五時半起床 天気晴れ

仏壇にて、般若心経を唱える

六時半 テレビ体操

仏壇の父と母とに手を合わせ般若心経声だし唱ふ

おだやかに生を終れること願いテレビ体操手足うごかす

 

*中野剛志の江戸時代の思想のとらえ方。

第一章において、「消された系譜」として、古学・実学・水戸学、というとらえ方をする。

開国イデオロギーの呪縛

日本史において、「国を開く」という意味での開国というのは、「文明の受容論」につながる。古代に於ける倭国の大陸との交流は、「三国史記」の「新羅本紀」に西暦一四年に「倭人が兵百余隻でで海辺に侵入し」とあり、三国史の記録には、日本の書紀では神功皇后時代に新羅出兵の記述がある。鎖国というのは江戸時代に起きたわけで、「鎖国」のイデオロギーに対して「開国イデオロギー」があったわけだ。儒学の展開と開国のイデオロギーとのつながり、または開国と倒幕・復古という国を左右する激動の思想混乱期とでもいえるだろうか。したがって中野の視点が、仁斎・徂徠・正志斎・諭吉の流れで解釈しようという試みだ。

中野の言葉を借りると「閉じた社会」期と「開いた社会」期とに対比されている。

中野の提起する問題は、「閉じた社会」論と「開いた社会」論のぶつかり合いの「日本史」と読むことができる。これはまた新たな視点を提供する。和辻哲郎の「鎖国」の中で、最後に「日本には航海王ヘンリーのような人物が現れなかった」ことが鎖国に至る要因だと書いているし、秀吉も、武力ではスペインやポルトガルには負けないと思っていた、とも書いている。だから怖れることはなかっただろうに、ということだ。

ただ日本史において、開国と攘夷問題が、尊王攘夷と、後に開国攘夷となるわけだが、「開国イデオロギー」とは何か、が問われる。

*中野の提起する問題とは別に、仁斎・徂徠の「古学運動」という日本独自の動きが、儒学克服に大きな意味を持つと言える。つまり朱子学批判であり、聖人思想への回帰、孔子を超えて、孔子が崇めた聖人にたどろうという動きが、日本の儒教を変えて、尚古主義に陥らずになる道を開いたし、その古学運動が水戸学へのつながりに結びついて行く。その水戸学の流れが明治期のナショナリズムへと向かう契機となって、後の福沢諭吉に引き継がれていくという流れとして、中野はとらえている。

*中野のとらえ方は、政治に於ける近代化の思想の問題であって、私が求めて板のは経済に於ける「近代資本主義の精神」の誕生に結びつく流を捜しているので、若干、視点がずれるかもしれない。ただ江戸時代において伊藤仁斎から始まる朱子学批判の古学運動が起きたことが、日本と中国の大きな違いと言える。

  ↓(Wikpediaから)

古学(こがく)は、朱子学を否定する江戸時代の儒教の一派。山鹿素行の「聖学」(これを特に古学(こかく)と言う)、伊藤仁斎の「古義学」、荻生徂徠の「古文辞学」の総称。

徂徠の学派を「蘐園(けんえん)学派」と呼び[1]、古文辞学的に研究し、その古典を道徳の観念より制度理論の書=一種の政治学の原典と見るやり方であり、近代的思考に近いものがあるとされる[2]。この学派は水戸学派や在野の「崎門(きもん)派」(山崎闇斎の学派)と異なり、『孟子』の放伐論を肯定したところに特徴があるが、これは幕府の正当性のために利用され、近世期の朝廷に政権がないのは、民を安んじたために幕府に委譲せざるを得なかったと解釈された(前同 p.51)。これに対し、山県大弐は逆に幕府打倒の正当性に放伐論を利用した[3]

一方、仁斎の古義学は、政治や社会秩序について議論することはほとんどなく、それを天命として、そのまま受け入れる(後述書 pp.173 - 174)。その関心は、秩序の元における人倫世界を愛と誠実と思いやりに満ちたものとするための、人々の日常生活における自覚的実践に向けられ、非統治者の立場から儒学を内面化した(後述書 p.174)。徂徠は、「道」を「古代中国の先王達が制作した礼楽刑政のこと」とし、天地自然や人間(の内面)から道を分離したが、徂徠の道の解釈が、政治や制度に限定されたのに対し、仁斎の道は、人倫世界(俗)に限定された(佐々木潤之介他 『概論日本歴史』 吉川弘文館 2000p.176)。

後世の解釈によらず、『論語』などの経典を直接実証的に研究する。その実証的な研究態度は国学などに影響を及ぼした(前同 p.176)。江戸中後期に流行し、越後長岡藩では藩校が建設された当初、古義学と古文辞学の両方が藩学となっていた。

他方、寛政異学の禁では「風俗を乱す」という理由で江戸幕府及びこれに倣う諸藩で公式の場での講義を禁止された。

*古学が幕府により禁止去れたというのも面白い。

寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)は、寛政25月24日1790年7月6日)、江戸幕府老中松平定信寛政の改革で行った学問の統制である。概要[編集]

江戸幕府による朱子学を中心とした儒学政策は、徳川家康林羅山登用に始まり、徳川綱吉湯島聖堂建設で最高潮に達した。その後、徳川吉宗が理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、加えて古学山鹿素行伊藤仁斎荻生徂徠古文辞学派))や折衷学派などが流行したこともあって朱子学は不振となり、湯島聖堂の廃止さえも検討された(『甲子夜話』)。

松平定信が老中となると、田沼意次時代の天明の大飢饉を乗り越え、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、また当時流行していた古文辞学や古学を「風俗を乱すもの」として規制を図った。

そこで寛政2年(1790年)524日に大学頭林信敬に対して林家の門人が古文辞学や古学を学ぶことを禁じることを通達し、幕府の儒官である柴野栗山岡田寒泉に対しても同様の措置を命じた。更に湯島聖堂の学問所における講義や役人登用試験も朱子学だけで行わせた。また、林信敬の補佐として柴野・岡田に加えて尾藤二洲古賀精里を招聘して幕府儒官に任じ、さらに荒廃していた湯島聖堂の改築を行った。寛政4年(1792年)913日には旗本御家人の子弟を対象として朱子学を中心とした「学問吟味」を実施させた。

寛政5年(1793年)4月に定信主導の学制改革に必ずしも協調的とは言えなかった大学頭林信敬が嗣子の無いまま急死すると、幕府はその養子縁組にも介入し、譜代大名松平乗薀の子である乗衡を養子として送り込み、林家の湯島聖堂への影響力を抑制した。そして同年7月の松平定信の老中辞任後も将軍徳川家斉の意向によってこの政策は継承され、湯島聖堂から学問所を切り離して林家の運営から幕府直轄の昌平坂学問所に変更した[注釈 1]。寛政11年(1799年)11月には定信時代からの懸案であった湯島聖堂の改築が完成し、以前よりも敷地・施設よりも大規模なものとなった。享和元年(1801年420日には将軍徳川家斉が徳川家宣以来絶えていた湯島聖堂参詣を行い、ここに定信の正学復興の意図はほぼ完成した。

ただし、「寛政異学の禁」の本来の趣旨は昌平坂学問所などの幕府教育機関における異学の講義を禁じることを意図しており、国内の異学派による学問や講義を禁じられたわけではない。例えば、幕末期に昌平坂学問所の儒官であった佐藤一斎は元々陽明学を学んでいたため、学問所では朱子学を、自宅では陽明学を教授していたが、学問所での講義でも朱子学の学説について一通り論じた後に、本来は異学の禁に反する朱子学と陽明学の比較にしばしば踏み込んだ話をしたという[1]。また、諸藩の藩校における教育方針を規制するものではなかったものの、幕府の動向を見た各地の藩校ではこれにならうものも出、朱子学に反対する学問を唱えていた儒者は生徒が少なくなり困窮したものもあったという。

なお、異学の禁に反対した儒者5名(亀田鵬斎山本北山冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴)を特に寛政の五鬼という。

*今気づいたことではあるが、《「民」をどうとらえて来たかの思想史》を考える。

日本と中国の違い。

周成立以前の聖王の時代の民論と、孔子以後の民論、それに対して日本に於ける古事記、日本書紀に見る民論の系譜。

孟子の説いた天命思想による易姓革命論に於ける「民」の位置。孔子が何を変えたのか?・・・「民のかまど」の話は中国の受け売りという。ならば「聖人」支配に於ける「民」はいかなる位置にいたのか。改めて自分で探るテーマが出てきた。

孔子と孟子以後との違いがあるのではないか。古学の本質は「孔子に返れ」であるのか、孔子が言及した「聖人に学べとなるのか。

徂徠の「聖人論」は、野口の書によると、《誰もが「聖人」になる」ことが求められる》というように解釈されているという。第6章の解説は重要と言える。

伊藤仁斎は「古学」への道を開いたことに功績があり、徂徠は、彼の「読み換え」が、近代への道を用意いしたと言える》

そして、水戸学へのつながりをもたらして、ナショナリズムとしての本居宣長や平田篤胤らの国学と尊王攘夷思想のナショナリズムを生む。

日本という国が、「儒教から逃れた」と石平氏はいうけど、正しくは「朱子学」から逃れたのであって、孔子の儒学は日本思想には骨肉化されていると言える。