11月30日〈木)

いよいよ明日で12月になる。早いものだ。

今朝本箱を整理して、田中久雄著『鎌倉仏教』講談社文庫を捜した。

多分これは鎌倉仏教の概説であろうから、初めの一歩の感じかな。

私にはもう一冊、末木文美士著『日本仏教史』(思想史としてのアプローチ)新潮社があって、テーマとしてこちらが近いかも。

鎌倉仏教と網野史学の中世社会とを組み合わせたら面白いものがみえるかもしれない。

これは昨日の続き。

 

で、今朝、あらためて、富永一郎は、大塚史学の流とは全く異なる、ウェーバー研究者の一人と言える。シュヴェント―ガーの本には12回出てくる。尾高邦男も10箇所でとりあげられている。

それとシュトヴェンガーの研究は、ある意味第一段階の日本のウェーバー受容史の実に丁寧な研究といる。確かにこの受容史のただなかにいた身としては、学問的世界における「ウェーバーとマルクス」問題があったが、他方で、日本における「アメリカ経営学の受容」というプロセスがあって、これは私が大学を出た後の場面と言えると思う。

私が20代半ばで就職をして、その時の日本のムーブメントは「マーケティング」であった。「流通革命」という林周二の中公新書の同盟の本がブームになって、戦後日本の商業活動が大きく変わる時期だった。

新聞記者であった渥美氏が「ペガサスクラブ」というチェーンストアーを形成するクラブを作り、渥美俊一氏の勉強会に参加したりもした。日本のチェーンストアが成立したのは、彼の活動の成果でもある。アメリカ直輸入のチェーンストアー理論を学んだのだ。いま大きくなった流通企業は、大体セミナーに参加していた。おかげで渥美氏は稼いでいた。私がイトーヨーカドー時代に、もろ、このアメリカ式流通形態の受容に動いたのだ。それと同様にピーター・ドラッガーの「経営論」が学ばれた。

理論的には、戦後マルクス主義が先行し、後にマルクスを越える形でうx-バーが受容されていく。ここで注目されたのが「プロテスタントの倫理と《近代》資本主義の精神」であって、それが学問的世界から実業的世界にも影響した。

長谷部日出男著『二十世紀を見抜いた男』(新潮社2000年)などという学者ではないジャーナリストのレベルの高い「ウェーバー物語」に出会ったときは驚いた。

日本でドラッカーの本がどれほど読まれただろうか。またドラッカーの前に、マーケティングの本がかなり読まれた。「ランチェスターの法則」などという本を買って読みました。セブンイレブンのアメリカ式の立地採点方式の評価なども学びましたね。

 

つまり、鎌倉時代の思想状況と、戦後高度成長期の日本の「周辺文化化への移行時期の思想面での変化を考えると、鎌倉時代は、唐の文明の受容とインド的仏教の受容があって、日本化する時期に鎌倉仏教が生まれ、他方、戦後では「日本式経営」が、形成したり、その後のプラザ合意を機に破壊されていって、グローバリズムにひっぱられていったりとか、

で、あらためて、日本的経営論が見直されて行くのではないだろうか。

21世紀になって、中国の動向が前半を刺激してきたけれど、日本が停滞している30年は中国が目覚ましい飛躍をとげたように見えた時代でもあった。だが、中国はまた間違えたと言えるだろう。

中国の繁栄は砂上の楼閣と言って良い。

中国の近代化のパースペクティブにおいて眺めてみるとき、社会的形態の「近代化」は装えたが、その近代的システムを維持する「思想」を古典的思想から変えることができなかった。それを妨げたのが『中華』という過去の歴史に頼りすぎたし、『文化的受容がない』という一点に結論付けられるだろう。

 

思想面での柔軟性が書けていることによって、中国はいつまでたっても中国なのだということになる。ここで4度目の近代化のチャンスを潰してしまった、と言って良いだろう。一度目は清朝末の洋務化運動を西太后が潰した時、二度目は辛亥革命が共産党に奪われた時、三度目は文化大革命の起動で、修正主義者を追いやった時、そして今回の習近平の自滅政策・・対米覇権競争の完敗での経済停滞で、今後の動きは読めない。

太平洋戦争と今回の米中貿易戦争の違いは、太平洋線はアメリカが仕掛けた戦争であり、後者は中国が挑んだ戦いであったということだ。

挑むには挑むなりの作戦・戦略があるべきなのに、そこが中国らしくて、出たとこ勝負の、口先だけの力任せの行動の連続だった。オバマ政権時からの南シナ海の侵略から始まって、一帯一路もAIIBも、対日政策も知恵が働いているようにはまったくみえない。

中華思想一本槍で、新しいカルチャーは何もうまれていない。いまや内田先生が指摘したように、辺境文化になってしまったと言ってよい。

中国思想からの脱却が出来ない限り、中国は、中国的変化をとげていくだろう。ロシアとか、北朝鮮と韓国も、多分中国と同じ道を行くことになるかもしれない。その場合に重要なのが、社会層問題なのだ。

内田先生の『旧約宗教の社会学的背景』の第二論文、「旧約宗教と社会層」の分析が面白い。

社会層の分析

《イスラエル宗教の、厳密にいえば宗教倫理の歴史的形成に》関係する社会層と、それに《敵対する》のが《庶民層を抑圧した特権階》で、そのグループとは《王、騎士階級、王の役人》たちという。また創造的な役割を果たすのは《祭司と預言者、平信徒知識人》のグループという。それらをさらに分析するけれど、様は、困難上時とか、先進文明に触れたときに、創造的に「新たな」、ここでいえば主教的倫理の創造に組するものと、否定的にする階層が対立するわけだ。つまり新たな創造を促す階層と、否定的になる階層の力関係だ。

また「預言者」の出現がない限り、大衆は動きかない。

中国の、そうですね北朝鮮は全くの辺境地域と言って良いでしょうが、鎖国的状況の国はいずれにしても辺境にならざるを得ない。

つまり辺境の変化は、先進文化との遭遇により、肯定的な反応をするか、否定的な反応をするかで変わるわけだ。中国は、また清朝時代と同じk事態を繰り返していくことになりそうですだ。

*日本と中国の相違

日本の維新が起きたのは、支配層にあっても、先進文明を取り入れようとした勢力がいたことだ。それだけ時代の危機感を抱いていた、ということで、おれはアヘン戦争などの情報が日本に入ってきていたからだ。中国は、明治維新をどのよに捉えていたのか?また、その後の日本については、何も学んでいないことがわかる。

『中華』思想が世界の「辺境」に中国を押しやったかもしれないし、自ら辺境になっていったとも言える。

マルクスは共産主義になるのは必然だと弁証法で説明したが、アンチテーゼを立てるには、自己否定が必要だ。だが、中国はそれができない。

『中華』思想こそ呪術の呪文になっているからだ。自縛思想から抜け出るきっかけがないので、輪廻から抜け出ることがない。ロシアも同じ。

北朝鮮は、身動きが取れないだろう。人民の犠牲の上に成り立つ。

中国が「近代化」するには、一度「専制思想」から抜け出ないとムリでしょう。『始皇帝の罠』とでも言えるかな。一度解体して、合衆国にでも組み替えないと、このままかもしれない。

*富永健一研究

11:45 富永健一氏のことを書こうと思っていたけど、話がそれた。

歴史的・思想的分野でのウェーバーでではなくて、経済社会学のウェーバーという観点から観たら富永氏の功績を上げねばならないだろうが、

誰も言及していないのだ。

今日、富永氏の自分史のような本を注文した。タルコット・パーソンズのウェーバーの「経済と社会」の理論の「序文」を昨年訳してみて、ウェーバーの「経済社会学」の重要性をしる。「経財と社会」の第1章が経済社会学で、富永健一氏が「世界の名著」ウェーバーで、訳されていたのです。

ウェーバーの『経済と社会』の第6章に《市場共同体》があって、折原氏が訳をされていると聞いたが、まだ本になっていない。

第4章『人種的共同体関係』というのがあって、日本では誰も手をつけていない。

第8章に「政治的共同体」というのも手つかずのようだ。

第6章の「市場共同体」論はきわめて大事だと思う。

第4章の「人種的共同体」というのは、アメリカ社会のような、民族主義の先にくるものという感じがする。

8章の「政治共同体」というのがどのような構想の元で書かれているかは予想が付かない。

ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行という場面に近代化の側面をウェーバーは強く意識しているように思えるし、「民族主義」という側面には、いずれ人類が越えないといけない枠がると思えるのだ。

その一例はユダヤ教からイエスが誕生して、ユダヤ民族という枠を越えて行くキリスト教を産み出したように、ゲマインシャフトを越える人類の絆の上に「世界共同体」の実現を見るとい未来があるのではないか。それは、このウェーバーの第8章が訳されて、日本語で読めない限り、私には届かないものだが。、それで、富永氏の「近代化の理論」とか「日本近代化と社旗変動」、放送大学のテキスト「社会構造と社会変動」というのが、とても興味深いものと私には思えるのです。なぜなら富永氏がウェーバーの『経済と社会」の第一部第二章の『経済と社会的基礎範疇』を訳されているからです。

でも第二部の「経済と社会荻諸秩序及び諸力」の2,3,4,6章が、訳されていないのだ。第二部の第1章がないのはなぜだろう。

ただ、富永さんはウェーバー研究者にはならなかったのが、他のウェーバー研究者と違うところかもしれないが、今日富永氏の自伝「社会学わが生涯」を注文したから、そこから何かを得るであろう。ウェーバーの「経済社会学」を解説といか、研究してくれているかと思ったのだが、ウェイトが「近代化論」」に動いたわけですね。そうか「経済学」ではなくて「社会学に」こだわったのかも。

今、「社会構造と社会変動」の1,2回を読みましたが、勉強になります。

近代化の定義(図の1)

            「伝統的形態」      「近代的形態」 

政治的領域   *法・・・伝統的法・・・・・・・→・近代法

        *政治・・封建制・・・・・・・・→・近代国民国家・

             専制主義‥・・・・・・→・民主主義 

 

社会文化的領域 *社会・・家父長制家族・・・・・→・核家族        

             機能的未分化・・・・・→・機能集団

             村落共同体・・・・・・→・近代都市

             家族内教育・・・・・・→・公教育

        *文化・・神学的・形而上学的知識→・科学的知識       

             非合理主義・・・・・・・・合理主義

 

要するに社会学的に定義すると、右のような社会構造の変化をもたらす。この移行期、または変動期を「社会変動」と言うわけだ。

この図の1はテキストにあるもので、これに基づいて説明される。

 

 

「社会構造論」に注視して世界をみたか。しかし、富永さんは「社会学」の立場で社会構造の変化に着目していたのだろうと思います。序論にそう書いてあった。「構造の変化」論です。

「近代産業社会」という二つの概念の結びついた「社会構造」をもつ社会を「先進社会」と定義する。

22:20 寝てしまう。