前回のブログで、一黙さんのブログをリブログさせていただいて、中国経済の問題点をダシに、アメリカが対中国政策の転換に半導体生産も絡む台湾問題で、改めて日本の立ち位置を認識し始めた、ということにフォーカスしました。

私の持論は「アメリカは日本の事をわかっていない」と言うことです。

馬淵睦夫著「『反日中韓』を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった」WAC2014年という本があったが、その本を読む以前から、アメリカは敢て、日本が再びアメリカに刃向わないようにするために、韓国と中国に「反日」の種をまいたのだ、と思っている。日本を畏れたのだ。だが本質的にアメリカは日本を理解できなかったのだと思っている。

ただ此処に来て、アメリカの対中国姿勢が変わっていることは間違いないと言える。トランプから始まった米中対立は、中国の本来の文化性を改めて見直す契機になっていると思う。

 今まで、日本にはキツイ態度でいたアメリカが、中国と面と向かうことで、中国がどういう文化の国で在るのかを、改めて知るきっかけになっただろう。経済が動き、それに合わせて政治が動き、それらの結果を分析するのが学問だから、社会科学的な分析は遅れてくるが、2006年にフランスのフランソワ・ラファルグという学者が『米中激突』(藤野訳2008作品社)があって、米中共同覇権への推移をみているが、エネルギーを巡る「共同監視」体制になるのではと、経済的な側面から分析しているが、文化性が欠けている。

《資本主義は一つではない》

アメリカでグローバリズムの総括がまだ行われていない。ただグローバリズム後の資本主義をアメリカはまだ明確に意識していない。それは英米的資本主義としての『株主資本主義』と意識されるようになっており、それの対抗的な資本主義として「日本式」または「日本型」資本主義として、ロナルド・ドーアが2000年に書いて、日本でも『日本型資本主義と市場主義の衝突』(原題はStock Market pitalism:Welfare Capitalism)ですから、Welfare型と市場型との対立と言うことになる。

新自由主義からグローバリズムへの流れは、本来の近代資本主義が、帝国主義化した「金融資本主義」化し、変形していったのです。資本主義経済の形態論とでも言うべきかもしれないが、その見通しが社会学者の中で理論付が為されていないのです。

マルクスは資本主義そのもの自体を否定して共産主義経済を主張したが、共産主義を唱えて革命をしても、形態は「貨幣経済」を前提とする限り、資本主義になるので、「良い資本主義と悪い資本主義」という様なとらえ方もされる。

ウィリアム・J・ポモール著の「良い資本主義と悪い資本主義」は、『国家資本主義』として中国を捉えることができる。この本で使われた「オリガルヒ的資本主義」という場合の『オリガルヒ』がいまは一般化されて、今回のウクライナ戦争においてロシアのオリガルヒがプーチンの支持母体とも言われた。また「資本主義対資本主義」と言う本で、ミシェル・アベールとうフランス人学者はあめりか型とドイツ型を分析している。ヨーロッパから見るとアメリカ型は、「市場主義」であり、「金銭至上主義」に見られている。それに対置するドイツ型を、ライン型資本主義と言うのは、「資本主義と社会民主主義の組み合わせ成功例と言うこともできる』(p162)とも書いているが、私の時代的感覚で言うと、『福祉国家』という範疇で議論された形態と言える。

日本では、英米的資本主義としての『株主資本主義』型への批判と、「日本型」の見直しに入っていて、日本の資本主義を内藤克人は「共生経済」と言い、原丈人は「公益資本主義」を言う。

前回のブログでも言及した英米において取り上げられている新たな資本主義へのアプローチは、ステークスホルダー(顧客・社員・サプライヤー・共同体)をも考える資本主義で、市場だけでも、営利だけでもない経営を目指す企業による経済活動をめざし、コンシャウス資本主義と呼ばれている。

アメリカの資本主義が、中国の国家資本主義の挑戦を受けて、グローバリズム後の資本主義を探しているのだと言えるでしょう。

今、世界経済に大きな影響を政治的に及ぼしているのが、中華資本主義です。しかしこれは、《前近代的な資本主義》のままで、国家運営も、少しも近代性を獲得することが無く、前近代的な政治形態のままです。これほど純粋型で『古代的支配形態』と変わらないのは、北朝鮮と共産党中国しかないと言えるでしょう。

米中対立、また日中対立の本質は、「文明の対立」なのです。中国は始皇帝以来の専制支配であり、『伝統的王朝支配』のままで、何に伝統的価値があるかと言うと、「血の繋がり」ではなくて、「王朝制度」そのものが伝統的正当性を持っているのです。『中華』とは綿々と続いてきた『王朝制度』そのもので、それを変えたことが無い。現在の共産党支配は皇帝の座を禅定に由って行っているに過ぎない。

ここにきて、英米型の株主資本主義中華式資本主義に共通点を見つけて、日本の経営観との相違を認識するようになっていると言える。「ステークスホルダー」を考え始めたのは、最近のイギリスからなんですが、それがアメリカで受け入れられて理論家されたのが、コンシャウス・キャピタリズムでした。

このステータス・ホルダーという概念はイギリスから出てきたことばのようですが、

しかし、このステークス・ホルダーを重視する経営思想は、日本では江戸時代からある経営思想であり、別に驚くことではないのですが、欧米においては真新しい考え方として受け入れられ始めているのです。

20世紀に、共産主義・社会主義が提起されたが、社会主義は資本主義に内包されて、北欧系の「ライン型資本主義」(私から言わせれば『福祉型資本主義』とでも言える形態を産み出してきたのだ。21世紀に入って中華資本主義がグローバリズムの鬼子として産み出されてきて、世界経済をかき回している。

21世紀のこの時点から、歴史を振り返ると、「共産主義」は理論的にはあっても、現実的には実現できないことが明確になった。日本の共産党は宗教団体です。世界が「貨幣」を使用する限り、貨幣経済にあっては、共産主義は成り立たないと判明したことです。

<「消費」を考える経済論>

マルクスは『生産』における『平等』を追求したけれど、それは官僚的支配の独裁と非効率な国家費本主義しか生み出さないことが、最後の帝国、中国が実証した。問題は『生産』ではなくて、『消費』の平等化を図るのが、本来の「共産主義」の目指す目的地なのだ。

マルクスが資本主義の後の形態が「共産主義」だと言ったのは、あながち間違えではなく、実際にアメリカに生まれた近代資本主義が『豊かな中産階級』を産み出して、《消費の平等化》という意味での消費財の『大量生産』社会を産みダアしただしたのです。誰もが豊かになり、誰もが自動車を変えるようになったから、自動車産業が生まれたし、消費財の生産が拡大されたのです。

電化製品から家、マンションなど、さらに国民が豊かになることで、「生産」経済が発展する。

共産主義=国家資本主義は、「豊かな大量の国民」を産み出せず、富の配分の極端な二極化を作り出す。「中産階級」を産み出せずに、持てる者と持たざる者との二極化を作り出すだけに過ぎないのです。

中産階層を極大にする国家運営は、またそのような経済制度とは?

国家の運営が「富の配分」に機能しないといけないわけですが、支配者の目線が、何処に在るかによって変わる。現在の中国の

支配者の目線は、共産党の維持にあり、共産党員の「富裕」にある。それ以外の大多数は、富の配分から弾かれている。アメリカは、似た様になって「株主・金融のエリートたち」に富が集中し、大衆は富の配分にあずかれないでいる。黒人、ヒスパニックなど、移民者たちが豊になるチャンスが与えられているか。

多くの経済論は、生産・販売まで広がって、企業経営・組織論まで来たけど、「消費経済論」が欠けていると言えます。経済における『消費』の役割が軽視されています。大量生産は大量消費が前提にされます。つまり経済のパイを大きくするには、消費力を大きくしなければ、大きくならない。とすれば、その国の経済の大きさは、中産階層の大きさに比例すると言って良いかもしれないのです。「豊かな社会」とは『豊かな国民』を産み出すことと言えるでしょう。

そのように考えると、日本の江戸時代は、面白い時代だったのです。

益田悦佐氏の『お江戸日本は世界最高のワンダーランド』のp20に、

「 1・江戸と言う資源循環型で環境に対する負荷の小さい高密度大都市を育てたこと。

  2・徳川幕藩体制の270年あまり、を通じて窮乏化し続けた武士たちと言う、世界史を眺めても類例のない特異な支配階級

    を持っていたこと。」

とありますが、「窮乏化し続けた武士たち」と言うのは、山村恭子著『江戸の小判ゲーム』を読むと裏付けされる。

この2の指摘を読んで、いかに日本が中国と異なる文明を形成しているかを知る。もちろnアメリカとも違うのです。

山村さんの本には、農民からは「地租」を取るのに、商人からは税を取らないことについて、税を取れば価格に転嫁して物価高を招き、庶民が困窮する」から取らない、と言うのが幕府の考えで、その代り、50年周期で、武士の債務棒引き令を出していた、と言う。さらに、それは幕府が、商人たちに取引が安全に行える「保障」を与えているから、その恩義に報いて、武士の借金を棒引きにしろと言うものだった。実際に、南北奉行所では、経済問題の裁判が多かったのだ。

そのように支配者の武士が商人から借金をする社会が江戸時代であったのです。中国の官僚達が賄賂をとって懐を肥やす風土とどれほど違うかわかろうと言うものだ。

 

最初に書き始めた時は「経営」に焦点を当てようとしたのだが、下書きに手を加えていたら思わぬ方向に話が向いてしまったが、広い意味で、冒頭のいくつもの資本主義があると言うことから、根本は企業の「経営思想」論に由るのではないかと思うわけで、その経営思想の変化が、英米的資本主義が、日本的経営にかわりつつあるのではないか、と言うことを書きたいのですが、寄り道しています。

 

 

資本主義の問題というのは、押しなべていえば、「経営」の問題であって、それが経済や政治と社会とでもいうべき3つの領域で存在しする行動する多くの組織体の維持・運営にかかわるもので、経済面での「経済共同体」の維持運営における「経営」という言葉に特化されるものではなくて、もっと広く使われるべきだと思う。

政治においては国家をはじめとする自治体の「経営」であり、社会面では多様な部門の維持・運営が経営になるわけです。宗教もその一つですし、教育機関や、文化面での行動個体も一つの組織です。

経済面での活動が「企業」といわれるわけでわけですが、今は、文化面での芸術にしろ音楽、芸能、スポーツもすべて「企業経営化」されていると言えます。

アメリカが作り出した文明というのは、実はこの『経営文明』だと言えるのではないでしょうか。

何事も経営化する、イコールビジネス化すーるということで、この『ビジネス化』の意味が大事になるといえるでしょう。

ビジネス=利益、ととらえるか、ビジネス=持続、ととらえるかの違いがあります。

日本では年の100年持続している企業はざらにありますが、アメリカはどうでしょう。株式上場企業で指標になる10社かな、その中で100年以上の企業は1社しかないというのを以前本で知りましたが、現代は『経営文明』とでも言い換えれば、本当の経営文明の実現者は、国としては、この日本が最長なわけです。

 

改めて、経営論的歴史観とでもいう見方で、歴史を見返せば、経済と言う分野が、古くからおこなわれていたのに学問として成立したのは近代以降です。学問的に言えば政治学、哲学、宗教学の方がはるかに古い。さらに医学や芸術などもです。

経営論は20世紀になって生まれた学問ですが、振り返れば、すべてが『経営』に凝縮されると言えるでしょう。文明も文化も『経営』なのですが、英語ではビジネスですが、それを日本語に訳した時に『経営』は生まれたのです。言いかえれば、西欧においてはすべてがビジネスと言うことになりますね。

経営はマネージメントで、ビジネスは利益追求?本来の語源はそれ時折れぞれ違うかもしれませんが、『経営』の在り方の違いが、歴史上に社会の違いとして出てくるのではないでしょうか。

習近平は中華株式主義会社の社長なわけでして、トップ7は役員なわけです。

日本株式会社の社長は岸田さんということで、それぞれの経営思想をトップの行動から推し量ることをすれば、企業の栄枯盛衰のように眺めることがで切るでしょう。

『国家経営論』も企業と同じ、いかに国益を上げて、富の配分を大きくして、豊かな中産階層を作り出すかが政治家の力量です。

社員の給料を上げられる経営者が偉いので、自分たちだけが太る企業は良くならないのと原理は同じと言えるでしょう。

「悪い経営者と良い経営者」の問題とも言えるわけですが、『経営』とは何か、という問題があるわけです。

今日は此処までにします。

言ってみれば、アメリカの『経営論』の変化・変質が世界を危うくしたのです。

まだ、書かせてもらいます。