中国にやってくる経済混乱にコメントが>猿令嬢さんからいただきました。

 

>日本企業は江戸時代から続いているのも少なくないが?
渋沢の功績は大きいが、渋沢が一人いれば国民企業がゴロゴロ生まれるものでもない。
チャイナの問題は渋沢がいないことではなく、改革解放以前にまともな企業が無かったことでは?

>猿令嬢さん
コメントありがとうございます。いや、まさに言われるように改革開放前にブルジョアジーを全部追放迫害しましたからね。私がブログで経済史的に指摘し、かつ常に「資本主義的精神」を取り上げていますので、それらを体現する要因がない営利主義だけの資本主義は、「合理性」に欠けると言えます。恆大グループの問題は、チャイナ式資本主義の典型だと思いますので、どの中国のどの企業にも当てはまる要素があると思います。
近代資本主義も長い歴史の上に生まれてきているものですが、シナには残念ながらそれを産み出す「経済の自由」が常に存在せず、つねに政治の支配下にあって、恆大グループの問題も経済の論理ではなく、政治の論理で処理されていくでしょう。それは「渋沢栄一」の様な人物を生まない政治的風土あって、経済人が育たない、つまり「経営」が育たない風土にある様に思えます。
共産党革命は民族資本の代表者であるブルジョアジーを敵にしますので、革命が起きた時点で、有力な企業は潰されるわけで、ロシアなどもその事例でしょう。明治維新が共産主義に汚染される以前に起きた近代革命の流れであったことが幸運であったと言えるでしょう。

明治維新が共産主義に汚染される以前に起きた近代革命の流れであった」という一言に、我ながら、日本の幸運を感じました。1850年代、ぺりーの来航から始まる幕末期の日本の動乱。

「共産主義を説いたマルクスの系譜」

1848年(30歳)「共産党宣言」を完成させる。

1849年(31歳)イギリスへ移住。

1867年(49歳)「資本論」第1部が刊行される。

1883年(64歳)死去。その後、エンゲルスによって「資本論」の第2・3部が刊行される。

明治維新の時には、「共産党宣言」が出されていた。最初に共産主義を掲げて起きた革命が起きたのが、ロシアで1919年のボリショヴィキ革命であった。マルクスの死後であった。

日本の明治維新は、イギリスのピューリタン革命やフランス革命、アメリカ独立戦争の流れの上で成立した「近代化革命」の最後の成果であって、その革命を輸出した辛亥革命は途中でとん挫して、ソビエトの指導のもとで、第二の共産主義革命となった。

その後、ベトナムやカンボジアやイスラム圏やアフリカに波及していくが、ソビエトが崩壊した後は、中国がそれに代わっていく。アフガンの出来事は、その象徴的な出来事だ。

近代化革命と、共産主義革命の大大きな違いは何かと言えば、「ブルジョアージー」階層の有無であろう。近代化革命の担い手を構成しうるブルジョアジー階層を敵にして、排除することで、何が起こるかと言えば、>猿令嬢さんが言うように、

日本企業は江戸時代から続いているのも少なくないが、(中国では)改革解放以前にまともな企業が無かった

という指摘が、きわめて重要になってくるわけです。

マルクスの資本論を見ると、「原始資本蓄積」の事が、倫理的に悪であることによってなされてきていると書いてあるように思える。ブルジョアジーがプロレタリアートを搾取することと合わせて、「資本家たち」を倫理的に断罪していくのだが、その彼らの経済的役割について分析するものではない。1880年代以降のイギリスの新聞記事を取り入れながら、労働者の立場で理論を組み立てている。

ブルジョアジーの資本主義における役割を、経済論的な立場で批判の対象としてとらえる事しても、擁護する理論は述べておらず、そのことによって、大農や工場経営者、大商人や知識人階層が攻撃の対象にされ、文革の時の様な事態が起こる。現在中国の新興大企業が「共同富裕論」の前に富を権力によって収奪されているのは、共産主義思想の背景に「ブルジョアジー悪人論」があるからだ。

「金持ち悪人論」は人間が生きている歴史の中では、弱者に対して共賛を得るには易いことなのだ。イエスはその存在も認めて、「金持ちが天国に入る門は、針の穴より小さい」としたのです(ルカ伝18-30)。「貧しい人は幸いだ。天国はあなたたちのものだ」(ルカ伝20-26)。

富める人が天国に入れる方法をイエスは説いている。今あるものを貧しい人たちに皆分け与えよと、つまり、貧富のある社会は前提であって、それを理屈でないものとすると言うこと自体が、今の言葉で言えばフェイクそのものなのだ。

フェイクを前提に社会の仕組みを作るとどうなるか。その体現されているのが、今では中華人民共和国の姿と言えるだろう。

マルクスの学問的系譜で言うと、ソビエトが神聖化することで、この理論は終ったのです。聖書のように生きながらえることがなくなった。なぜかと言うと、フェィクを説いたからと言ってよい。

ただ、マルクスが、彼の死後の共産主義国を説いたかと言うと、「プロレタリアート独裁」という概念がやはり過ちを導く契機になったと言ってよいだろう。ヒトラーだってナチスの党名はマルクスの影響下にあったし、大衆行動は労働争議から学んでいるのです。

 

1868年明治維新の時にマルクスの資本論第一巻が出版されていた。

マルクスの資本論が日本にもたらされるのは、その半世紀後であろう。いずれにせよ共産革命ではなかったという意味での「近代化革命」の系譜をひいていると言うことが幸いした。中国の辛亥革命が、共産党革命に乗っ取られたことで、近代化に必要なブルジョアジーを一掃してしまったことが、「近代化」を為し得ない原因の一つに挙げられるだろう。清王朝以前、宋王朝、明王朝、清王朝と続いた商家もあったかもしれないが、100年以上に続く企業が無いこともまたチャイナの特徴だ。

つまり、王朝が変わるたびに、王朝に気に入られた商人がいて、時代の度に代わっていったと言えるかもしれない。

ブルジョアジーが一概に悪いものとされるのであれば、今の中国の金持ち階級は、権力に組してカネを貪った連中であり、経済活動を担って富を得たものではない。まあ、改革開放後の経済活動で富を得た起業家たちは、所謂民族資本を形成する種子を共産革命は刈り取ってしまうことになる。共産主義が浸透した国の経済が後進性を抜け出れないのは、民族資本が欠如して、民間による産業を興すことができないことにある。農業依存的な産業構造と言うことになる。インドはイギリスの植民地で民族資本の形成分を英国に奪われたのかもしれない。

ブルジョアジーという「金持ち」「資産家」資本家」などは、必要悪として、その役割があると言える。それを二元論でマルクスが括ってしまったところに、共産主義の「悲劇」の根があると言える。

金持ちも貧乏人もいるのが社会で、その存在を否定することが、いわばフェイクなのだと言える。それを人々はユートピアと称したが、そんな国、社会システムはないと言うことで、マルクスが掲げた「共産主義」のプロレタリアの独裁は、地上に不幸をもたらす種を撒いたのだと言える。

社会主義と共産主義を一緒にするのは、間違いかもしれない。「社会」(共同体)を優先するか、「個人主義」を優先するかとの違いがあって、個人主義の対語として社会主義があっても良いと言える。どちらを「主」に考えるかであって、ただし「個人主義」「勝手主義」とはまた違うわけで、Freeという用語ほにゃきうする時に、「自らに由る」=自由と訳したことは素晴らしい訳だと言える。ここに倫理性が入る意味を持たせたからだ。自由=自律という意味、勝手には「律」がない。

<b>日本が近代化できたのは「自由」という訳語のおかげだ</b> 2013-08-25 08:33:02

最近、私が取り上げているテーマとして、『株主資本主義』と『公益資本主義』がある。社会主義という言葉を『公益主義』と称しても、言わんとすることは、私にとって同じで、意味合いからすれば「公益主義」がよいかもしれない。どちらを優先するかの意味合いにおいて、個を優先すれば調和を壊すことになりかねない。日本と言う国は、昔から公益主義であったと思う。

 

ブルジョァジーと言う階級とプロレタリアート階級と言う二分論が、歴史を歪曲させる見方につながったと思える。いずれにせよ、マルク主義的世界観は、キリスト教よりも悪い性格を持つ。そしてこの理論が、中国人に受け入れられて、中国化することで、毛沢東や習近平という、ヒトラーやスターリンの系譜の「権力主義者」を肯定する理論になった。いずれも専制支配を肯定する理論となって、マルクスの想定した資本主義社会の先に来るべき社会が、資本主義を経ずして到来すると言う理論的矛盾を起しているのだ。言い換えると、彼の「資本論」自体が、フェイクかもしれない。マルクス自身は「近代人」としての恩恵を受けていた。「共産主義」自体がフェイク理論と言うことでしょう。

 

ということで、日本は歴史的に西欧史ににた経過をもち、中国とは全く違う歴史の上に社会を築いていると言ってよいでしょう。