短歌で詠う百名山 28 燧岳(尾瀬)

 

天そそる燧の高根雪つみてあなすがすがしそらに光れり   平野長英

 

深田は尾瀬と平野長蔵のことをこう語る。

 平野長蔵は、「二十歳の明治二十一年(一八八九年)八月二十九日燧岳に登り、更に九月二十四日頂上に石祠を建設した。その後沼畔に長蔵小屋を建て、尾瀬沼山人と名乗ってその一生を尾瀬の開発と擁護に捧げた。この尾瀬の主が亡くなってからもう十数年になるが、私は学生時代に長蔵小屋の炉辺でゆで小豆を食べながら、その意気高らかな気焔を聞いたことがある。結顔の長蔵老は政治を論じ時局を談じて、気概当るべからざるものがあった。」

「燧に登った日は快晴に恵まれて、四周の山々を残りなく見渡すことが出来た。日光の山、上越の山、会津の山、越後の山、はては赤城の黒桧山の右肩に微かに富士山さえ見えた。山岳展望台として燧岳は無類の位置を占めている。その下山の途中、ナデっクボ(雪崩窪のつまったものか)の雪渓の上で、初めて木暮理太郎さんにお目にかかったのも思い出である。木暮さんは明治二十二年まだ少年の時父に伴なわれて尾瀬を通過されたというから、最も古い尾瀬愛好者の一人であった。

 長蔵翁のあとは、御子息の長英さんが継ぎ、尾瀬のために尽している。長英さん夫妻は短歌をよくし、左のような作がある。

この朝も燧の高嶺雪ふりぬいよいよみ冬近づきにけり   平野長英

燧岳の祭を客もうべなひて赤の飯を食すけさの安けさ   平野靖子」 

 

深田久弥の百名山の順序からそれて、会津駒ケ岳に次いで、燧ケ岳に移し間う。

尾瀬を訪れた人は尾瀬沼の湖畔にある長蔵小屋を一度は尋ねるに違いない。尾瀬で一番歴史のある小屋でもある。

 

平野は歌集のあとがきで、

「私か短歌を作りはじめたのは今市の高等小学校を卒業して尾瀬沼畔の長蔵小屋に来て暮すようになってからで、そこは人里遠い山の中の 軒家で、語り合う人の友もなく又読みたい本もないという孤独な貧しい生活の中から、そのさびしさや悩みを訴える手段として、また移り変る四囲の風物に感動してその自然の美しさあわれさを表現する手段として、選んだのが短歌であった。」と書いている。

彼は窪田空穂の『歌の作りやう』といふ本を買って繰り返し読み、作歌の心構えとを学ぶ。「この本は小学校を出たばかりの私にもよくわかるようなやさしい言葉で書いてあるので、楽しく読むことができた」と述べている」。さらに、窪田空穂編『最新 万歌集』と、松村英一著『現代短歌用語辞典』を買ってきて夜暗いラノプの下で熱心に読んだ」という。

大正7年に今市尋常高等小学校をでている。私の父と変わらない世代だ。当時の事情など今の我々には想像もできないほどの暮らしであったと言える。

 

燧岳頂き近く石楠花の花咲き匂う蜂の来寄れり

 大正十三年以降九月輪卒となりて旭川輜重第七大隊に入営、同年十月三十日帰休除隊す。

雲白く麓つつめる燧岳をはるかに仰ぐ今日の門出に      

 

昭和五年 父逝く

茜さす昼しづかなる尾瀬の沼やここ守りし父は逝きにけるかも

ぬし逝きて沼も悲しきか茜さす昼ながら今日は波さえたたず

うつくし尾瀬の沼山まもりつつ逝きにし父の尊かりける

(上高地焼岳・ 穂高・槍)五首あり

烟噴く山のふもとは焼け枯れの木木群立てるいたいたしかも

頂きは逝きもとどめぬ険しさの穂高が岳を今ぞわが見つ

天きらし雪の降れればかくろひて穂高も見えず焼岳も見えず

槍ヶ岳見つつしおれば風寒し槍見河原に陽はかげり来て

入り日の光は寒くしづかなり天そそる槍ヶ岳の上

故郷の山 昭和8年

おほどかに聳え鎮もる燧岳頂きの雪天に光れり

 昭和9年 

青々とすみわたりたる冬空に雪の燧はひかりてそびゆ

(追悼 田中保雄氏弐首)

雪解の沼ゆ燧を描きたる君いまはなし春はきぬれど

消え残る雪を踏みつつ登りたち燧ケ岳に君をしのびぬ

すがすがしく雪の燧のかげうつす尾瀬沼にわが顔洗ふかも

ほねをさす岳のふぶきにたへたへてのぼり立ちたり燧ケ岳に 

  皇太子殿下尾瀬スキーツアー(昭和27年2月)

登り来て峠の上ゆ見さくれど燧ケ岳は吹雪きて見えず

皇太子さまいでましつるに尾瀬沼の燧ケ岳は今日も吹雪ける

燧岳まないたくらはひもすがら今日も吹雪きて夕暮れにけり

いつしかに吹雪はやみて燧岳白きいただきあらわれそめぬ

ふもとべは風もなけれど燧岳いただきはなほ雪けむり上ぐ

冬晴れの真青き空に清々し雪の燧は光りてそびゆ

雪晴れて燧が岳は光たり皇太子さまも仰ぎみたまうふ

雪晴れの燧が岳の頂に登りて立たばすがしかるべし

 

今の上皇の戦後の歌です。天気の悪さにさぞや木を揉んだであろう。しかし天気も回復して皇太子とともに山頂に立つことができたのだろう。

(長英の挽歌)

さだめさへちちにぞ似たり尾瀬沼のほとりにわれも一生終えるか

平野長英の他に、燧ケ岳を詠った歌人はそう多くはない

結城哀草果の歌 四首

皿伏山に湧ける夏雲ひと押しに尾瀬沼うずめ燧ケ岳を覆う

二重火山燧ケ岳をきわめんに火口ふたつに喘ぎ挑む嶮しき岩場

燧ケ岳は水海のうへに聳えて悠々と二三百米東北一の髙き山

燧ケ岳至仏岳あひ対いその峰々に夏雲そぶ

 

それと小杉放庵の歌一首を見つけている。

岩代の燧の岳に親と子が相呼びわたる七月の雪       

私は平野長英氏の歌を詠んで、いたく心を打たれたものがある。靖子さんの歌もいい。やはり戦時の歌や親子の関係の歌には自分を重ねて詠んでしまう。

息子を一人戦争でなくしている。

 

老いづきてやまひもてれど尾瀬沼のほとりの家を離れがたかり

 

いふことなき良き妻なりと思ふなりわれ病みて心むなしきとき時

かしこくて心やさしくてわれに過ぎし妻と思えばいよいよかなしき  (最後の歌)

 

最後の2首は、私の妻にも残したい歌でもある。このような歌が最後に詠えるようになりたいと思う。

平野長英は明治36年5月に生まれ昭和63年1月18日死去

(*命日が私の父と同じ日だ。)