雄阿寒岳
阿寒岳は雄阿寒と雌阿寒がある。
深田久弥は阿寒岳について石川啄木と江戸時代に蝦夷地を探索した松浦武四郎に触れている。
深田が雄阿寒岳に登ったのは一九五九年だ。当時は雌阿寒は登山禁止であった。
深田は雄阿寒・雌阿寒のふたつを登ろうとしたが、雌阿寒は登れなかったのだ。
したがって、阿寒岳は二つ登って一つと言える。
阿寒には「マリモと啄木の歌碑が観光客を引きつける」と深田は言う。その一つ啄木の歌を深田は紹介する
「湖畔の啄木の碑には次の歌が刻まれている。
神のごと
遠く姿をあらはせる
阿寒の山の雪のあけぼの

実を言うと、この歌はここでは適当でない。というわけは、啄木が釧路の海上から阿寒岳を望
んで詠んだものである。彼は阿寒湖には来ていない。が、観光業者は石川啄木というお金になる文学者を利用することを忘れない。」
と言い、他方で
 「歌碑まで行く途中にある松浦竹四郎の詩碑には殆んど立留る人もない。碑には次のように刻まれている。
水面風収夕照間
小舟捧棹沿崖還
忽落銀峯予防影
是吾昨日所學山
 安政戊午年一月廿八日即作
 松浦竹四郎 源弘題


歌碑も詩碑も戦後に建てられたものだが、所を得ている点ではこの歌碑にまさるものがない。」
と言う。
深田の文句もわかるけど、松村さんの漢詩、当時の人にも読み切れなかったのではないのかな。現代ならなおさらだが。たぶん、この湖に小舟を出して周囲の山を詠んだ漢詩と言えるが、高校時代の漢文ではもはやおぼつかない。
「松浦竹(武)四郎は弘化一年( 一八四五年)二十七歳の時から安政五年(一八五八年)まで、困苦を冒して未開の蝦夷地を探検し、北海道開拓の礎を築いた。蝦夷に関する著述だけでもおびただしい。」と松浦と北海道との関係を言う。
「釧路市の丘の上にある公民館の前庭に、あまり人の気づかない小さな竹四郎の銅像が立っている。彼は和服にたっつけという姿で、片手に筆、片手に帳面を持って、阿寒岳の方をにらんでいる。その傍らに一人のアイヌ大かかしずいて、同じ方向を指さしている。アイヌの教えるところを、竹四郎が書き取っている形である。人と所と一つながら得たいい銅像である。この丘から北にあたって阿寒の連山が実によく見える。雄阿寒、雌阿寒、その雌阿寒に重なるように阿寒富士。私は秋の末のある晴れた朝、その眺めに心を奪われた。」


と言うが、釧路には行ったことが無いので、この光景が事実なのかはわからないが、そうなのであろう。
 「この雪峰が雄阿寒岳であることは間違いない。阿寒には雄阿寒と雌阿寒があって、高さは後者の方が上だが、眺めて立派なのは前者である。雌阿寒は全体がなだらかで、湖畔から離れているが、雄阿寒は力強い端正な円錐形で、ただちに湖面に影を落している。両阿寒岳のうち、この雄健なドームの方に「雄」を与えたのは、古い住民の正当な感覚であった。阿寒湖に活を入れているのは、この雄阿寒岳である。(一九五九年)の夏訪ねた時はちょうど噴火が始まっていて、登山禁止になっていた。両阿寒のうち登り易いのはこの雌阿寒の方で、距離が長い代りになだらかで、散策的登山ができる。それに反し雄阿寒の方は、高さこそ劣れ、急峻なために登山者は稀である。
 両阿寒に登るつもりだった私は、雄阿寒だけで我慢せねばならなかった。」

とある。引用が長くなったが、雄阿寒は1311mで、雌阿寒が1499mだとある。
私はこの両方に登ったが、雌阿寒の方が標高が高いとは思わなかった。

さて本題の短歌だが、先に挙げた啄木の歌の他には、斉藤茂吉、川田淳、小杉放庵、左藤佐太郎などの歌人の歌を見つけたが、ネットは見当たらない。雄阿寒岳にはこの二首を見つけている。

みずうみの髙きにありて雌阿寒のやま雄阿寒のやま海霧(がす)くもりせり  斉藤茂吉
斑雪(はだれ)置く雄阿寒岳は深々と落ち込める谷の向こうに峙てり       川田順
いかさまの蝦夷の古神おきなさび鎮まりますぞ雄阿寒の岳            小杉放庵


斉藤茂吉の歌は、どこに居て詠ったのだろうか。阿寒湖の湖畔から二つの山が見えたかな。私が妻と2001年の北海道ツアーに参加した折には阿寒湖畔からの雄阿寒岳は雲の中であった。
実際に登山した日でも雄阿寒から雌阿寒を捕えた写真もないので、茂吉も歌の如くに雲に覆われて何も見えなかったことを悔やんで詠んだのだろう。
川田の歌はどこから詠んだか想像がつかないが、この歌を想像させるのは羅臼町から阿寒町へ戻る国道241号阿寒横断道路の永山峠付近で、雄阿寒岳を捕えた一枚だが、この先に双岳台と言う展望場所がパーキングとしてあるようだ(これはグーグルマップから。)

 

登山道は樹林帯の中で、眺望もなく、8合目付近で樹林帯をぬけて稜線となる。天気は回復する気配もなく、雨の降らないことだけを願って登る。覆う

 

百名山残る九座の一の山長靴履いて挑む我なり

霧とざす冴えない森の道を一人ゆくお前の道だと森がささやく

 

 

山頂にて                    火口もぼんやり  

 

雄阿寒の外輪山の山頂で自撮りしていてしずかに笑う

晴れたればいかなる景色があるのだろう最早諦め山下りゆく

 

この雄阿寒岳を雄大にとらえるチャンスはこの日無かった。早々に下山して、斜里町へ向かったのだ。二日後に阿寒に戻る途上で思わぬ雄阿寒岳をとらえるっことができて幸運だった。この姿を見ずにこの地を去れば印象に残らぬ山となっただろう。

 

永田峠からの雄阿寒岳
私が通った時は夕方で双岳台には気づかなかったが、車からこの写真が撮れてよかった。この姿を見た時には小杉の歌の如く素晴らしい山容に思えた。登山した日は天気が悪く火口跡も見えず、ただただ樹林帯を歩いた山に過ぎなかったが、この姿を見て感動した。

 

忽然といでし雄阿寒厳かにわれ出逢えたる大地の神かも

 

雌阿寒岳

  

オンネトーの案内図              4合目からの山頂                 山頂にて

雌阿寒岳については、深田が訪れた時期(昭和34年)は登山禁止であった。

私の計画では最初に幌尻岳に登る予定であったのが、天気が悪く、予定変更して知床・阿寒地域の山を先にしたのだ。17日に雄阿寒に登り、18日に斜里岳、19日に羅臼岳を登って、20日に雌阿寒を登ったのだが、この期間、阿寒の天気は雨こそ21ないが曇り空が続いていたのだ。

 雌阿寒はオンネトーの雌阿寒登山口からピストンであった。樹林帯を抜けると火山特有の山肌となり、ざらついた砂礫になる。

朝5時前に登り、午前10時前には戻ってきた。

6合目から見た雄阿寒岳

 

この大地いくつもの山あれでど雄を与えしはあの山姿

孤高なる厳しさ持ちて生きるさま男なればの姿に思う

風雪を耐えて大地にそびえたつ山に教わる生き様もあり

 

それと同時に風が攻めてくる。8合目附近カップルに出会い、上から団体さんが下りてきた。先導すガイドさんに声をかけたら危険なので降りてきたと言う。

 

風襲う稜線下る一群の人らこわばり山頂踏めず

 

先行していたカップルに追いついていた。私は二人に声をかけて山頂に行くかと聞いたら、行きたいと言うので一緒に登った。

 

山頂で2人の写真撮った我雌阿寒山の思い出となる

ガスガスの山頂の風激し火口の縁にも近づけぬまま

風襲う稜線に立つ強者が阿寒富士めざして霧雲(ガス)に消えゆく

 

雌阿寒岳の歌を歌った歌人は、一首佐藤佐太郎にみしか見つけられなかった。

 

山々の黒しげりの上にして光の中の雌阿寒山                    佐藤佐太郎
 

佐藤佐太郎は現代に近い歌人だが、この旅行詠は、朝か夕方か、言い換えれば朝陽か夕陽なのかによって風景が違ってくるだろう。山頂にだけ陽がさしている情景なのかと想像するが、どうだろう。

 

     

オンネトー湖畔から見た雌阿寒岳と阿寒富士(右)  野中温泉の良質な湯

 

 オンネトー湖畔 

雌阿寒と阿寒富士の上雲立ち去らぬままにして去りがたし

 野中温泉

誰も来ぬ湯船を一人貸し切って手足伸ばせば窓からの風

 

午前10時過ぎに野中温泉で一風呂浴びて、阿寒からいよいよ幌尻岳に挑む。再び平取町のとよぬか山荘へ戻るのだ。