2 羅臼岳 1661m
深田久弥の羅臼岳紹介の一節
「知床半島というのは細長い山脈の突出であって、殆んど平地がない。海のきわまで山が迫っている。その山脈のおもな峰々を半島の附け根の方から数えて行くと、海別岳、遠音別岳、羅臼岳、硫黄山、知床岳などがあり、羅臼岳が最座局い。全体が火山脈であるが、殆んどが死火山であって、現在活動しているのは硫黄山だけである。」
「羅臼岳が知床富士とも呼ばれるのは、羅臼村からすぐ眼前に形のよい円峰のそびえているのが見えるからだろう。村は海ばたにあるし、そこから直線距離八粁で、懸値なしの一六六一米を仰ぐのだから、山は大きく立派に違いない。違いないと言うのは、私は天気気を待って村の宿屋に四晩も過したが、ついに山を仰ぐことができなかったからだ。ただ写真で察しただけである。」
「羅臼はアイヌ語で斗鹿、熊などを捕ると必ずここに葬ったため、その臓俯や骨のあった場所」という意だそうで、ラは「動物の内臓物」、ウシは「たくさんある所」を意味するという。ラウシと呼ぶのが正しく、古い地図には良牛と書かれている。」
深田久弥がこの山に登ったのは昭和29年とある。恐ろしく大昔になる。私が9歳の時に登っているのだから、いまとは風景もまるで違っていただろう。私が登ったのは2012年(平成24年)の8月19日でした。
羅臼岳の短歌は一首しか見つけていない。
知床の岬の山にかたまりて残れる雪は海の上に見ゆ 五味保義「清峡」
であって、私の趣旨から言うと山名が無いので、私の求めるものには該当しないが、名のある歌人には読まれていない。山岳短歌集にも載っていない。硫黄岳とあるが、歌としては知床とは縁がなさそうでとれない。それでネットで調べてみたら、次の歌を見つけた。
羅臼森林限界こえたれど何も見えねば知床と思え 鎌田章子
雪渓の深くのこりし北辺の大地を下るカムイワッカの道 母衣崎健吾
雪雲に虹現れて硫黄岳戻る船尾に見送りて立つ 「軽井沢にて短歌と写真」
来る冬の寒を思わす雪くもの嶽が姿見知床の五湖 々
黒き影海辺に出てき羅臼岳雲間白々知床旅情 々
ウトロの道の駅で仮眠して早朝に岩尾別から、地の果てホテルへ向かう途中で、知床連山を一望する峠を越えるのだ。私が登った時期は夏だが、秋になれば、前掲の「来る冬の」の一首がまさにその歌にはまるのだ。
「黒き影の一首も、最後の「知床旅情」が聞こえてきた歌に重ねたのだろうが、「白々」ときた情景を潰したかのように思える。面白味を押さえたら情緒が出るかなと思った。
「羅臼森林限界」の歌も「何も見えねば知床と思え」という下の句が説明になっているので興ざめだ。抒情に欠けるように思えて惜しい。カムイワッカは硫黄岳登山口の近くにある湯の滝のこと。羅臼と言うよりは硫黄岳を読むものだ。
岩尾別の峠から右に羅臼岳と硫黄岳への稜線を見る。羽衣峠を越えて大沢に出会う。その岩場の中を抜けると羅臼平にでる。キタキツネが餌を探してうろうろしている。
陽のさせる連なる峰々さしおいてひときわ高く羅臼岳あり
地の果ての山に立ち入る思いして木下小屋に車走らす
私たち後期高齢者なのというひと群が声かけてくる極楽平
雪消えた大沢の岩道乗り切れば羅臼平の這松の中
見上げれば羅臼の頂岩の塊しがみつく花さけて足おく
北の果て知床に生きるキタキツネ人を畏れず我が道を行く
羅臼平から見上げる岩稜の頂。岩場を登って頂きに立てば、硫黄岳まで一望できる。更に北方領土の島も見える。
羅臼山頂にて)
見わたせば硫黄岳まで知床の山の連なり残雪を置く
海上に蒼く薄れる島あればあれ国後島と指をさす
オホーツクと太平洋を左右にし羅臼ヶ岳の頂に立つ
ほんらいなら時間をかけて硫黄岳まで縦走もしたいし、カムイワッカの滝にも行きたいものだが、限られた時間では余裕が無く、岩尾別に戻り、知床峠を越えて羅臼の町に出て再び阿寒に戻ることにした。
三枚目の写真は知床峠からの羅臼岳。四枚目は羅臼の街から見た羅臼岳。深田久弥はこの姿を見ることができなかったのだ。
若者に着いて下れる羅臼岳半時間にて置いていかれる
一生に一度の山かも峠より羅臼の岳にさよならを言う
最果ての小さな街に迫るよう堂々と在る羅臼岳見る
海抜ゼロメートルから見る1661mの高さは髙いのだ。そのことを改めて知った。深田久弥が見たらどのように表現しただろ
うか。
(羅臼街町から見上げる羅臼岳)