11月9日(木)

今朝は朝の散歩に、薬王寺と神明社に詣でて、般若心経を3回唱えた。薬王寺は当然だが、神社で唱えたにはわけがある。以前秩父神社に詣でた折に、神官が、座して衆人の前で般若心経を唱えていて驚いたことがあって、何かの折りにその話をしたら、神社でもあると聞いたので、唱えることにした。

*コトキンのこと。彼は1952年生まれだから、7つ違い、もう70歳になったから、同時代の学者とみていいかな。

『カリフォルニアInc.』1982年に翻訳本が出ている。レーガンの時代から、TPPが計画された時代の話と言える。

『第三の世紀』(経済大国日本への警告)1989年

『トライブス』(世界経済を新たに支配するのはだれか、という副題がついている。1993年の)

『都市からみた世界史』2007年2023年

マイケル・リンド著「新しい階級闘争』2020年月

『新しいっ封建制がやってくる』2023年11月

中野剛志史がいずれも関わってる。一つの潮流かもしれない。

*ブックオフに立よったら、ロバート・キヨサキの「金持ち父さんと貧乏父さん」が350円で売っていたので購入した。この本は以前、マンションのゴミ捨て場のにあったのを読んで、いたくショックを受けた本だった。拾った本はaruある人の息子さんに貸したが返ってこないので、今更返せとはいいたくないので買うつもりでいた。

  

11月10日(金)

20:50今日は何事もなく、一日は終ります。先ほどジムに行ってお風呂会員でした。運動をする気にはなれない。

*胃癌手術の後、やっと一年が過ぎて、体調の回復を、口には出さないけど、半ば期待していたのに、ダンピングの症状に夕べも苦しめられて、さらに気弱になった。

正直、この日記に愚痴をこぼす。確かに体力的には、自信がない。死ぬことを怖れないのと生きたい気持ちを天秤にかければ、怖れのない方が重いだろう。生きて居なければならない理由がもはやない。ただ生かされていると思えるので、「ただ生きている」だけでは生きる切る炎がない。最近突然にくる「燃え尽き症候群」というのがあるそうだが、調べてみるか。

時として気弱になりておとなしく時の過ぎるを待つのみとなる

願わくば命を燃やすなにごとか求め続ける気力うせたか

足腰の衰えともに気もなえて並んで歩く影のほそさよ

 

11月11日(土)

今朝は6時近くまで寝ていた。アイビーとの散歩は、アイビーが行きたい方に歩かせて、航空公園までいった。昨日来より元気がないのでいささか心配しているが、いつもの姿でいて、ほしいものだ。

今朝、論語から、今の中国の政治を論じてみようと論語をスキャンしよとしたが、検索すればあるだろうと思って検索したら、すごいわ、驚きだ、古典が全部とは云わないまでも検索できる。

中国古典の解説 (esdiscovery.jp)

とりあえず、右のものをお気に入りにキープした。これで論語については引用が可能だし、あらためて勉強する。

堯曰二十の三章から、習近平批判でも書くかな。

それと孔子における経済倫理を探るのも面白い。

渋沢栄一の「論語と算盤」は、つまるところ、孔子の経済倫理を渋沢が読み解いた、とう言うことになる。問題は堯曰三章にしても、その他の巻での政治論を、ひろい集めてみたい。本質は、孔子の「政治論」があり、次に「統治論」があり、「官僚論。組織論」があり、「実践論」があると言えるが、問題は、「実践」を強制する手立てがなかったことで、「実践形式論」に逃げられる道が、どっかにあると言える。(内田先生が言う《プラーグマ》の欠如により、建前論に逃げられる・・・中国の法治ができないのは、この建前論の行動にある。⇒実践しなくても言い訳ができれば許される。これは孔子にはどうしようもないかも。

浅野氏のいう「孔子詐欺師論」というのも、ルサンチマン説も、私は面白く読んだし、言いえることに思う。孔子自身が「聖人」の列に加えられたことが本質的には大きな誤りだったと言える。孔子の説く「倫理論=徳・仁論」を強制する要因にはならず、形式論に陥る道を残していたと言える。「預言者」カルヴィンとの違いを考える。

孔子は、それと「君子」という理想型の知識人階層をという階層を対象としたが、底辺までの人民の救済を説いたわけではない。しかし、それを日本において、「武士道」という武士階級や、夫々のl階層における「道論」へ変化させた。商人道、特に尊徳の封建的思想の固定化につながる「分」の思想。「分をわきまえる」は、その職業・身分において、「分を果たす」=「役割を果たす」という実行・実践につながる思想を説いた。

日本の思想背景には「言行一致」の思想がある。これがどのように生まれてきたかを調べないといけないが、仏教の教えかな。

要するに、儒学・儒教の中にも、近代を導く糸はあったと思うが、孔子の後継者たちや、老子の思想などが、また道教などの思想的影響が、「実践を重視する思想」を産み出していないということなのだ。(陽明学が起きたが、むしろ日本でよく学ばれた、と言える。「言行一致」の「道徳的行為」の欠如、これが問題と言える。

渋沢栄一が、欧州にて、日本人の「商道徳」を批判されたという事実に基づいて「論語と算盤」が書かれたという事実を無視してはならない。

冒頭に書いた論語堯曰から、考え出したことと、話がずれてきているが、基本は」が『言行不一致』です。

堯曰を詠み、現在の共産党の中国とを眺めれば、そこい見えるのは『言行不一致』だ。

孔子は「道」を説いたのか?何をといたのか?

・・・道教の役割を忘れていないか?

儒教は、ある限られた階層によって広められてはいたが、庶民や教育のない人民大衆を位牌していたのは道教ではないか?

それに仏教もある。

儒教というのは支配階層の宗教・信仰(または支配思想)で、被支配者は層は道教とか仏教の影響の方が強いのではないか。共産党員ですら、道教的迷信を強く信じているとも言える。

http://modernchina.rwx.jp/magazine/22/ninomiya.pdf

現代中国の道教と道士  現代中国研究 22

2007年の調査報告のレポートだが、やはり、儒教を重要視するけれど、庶民の宗教は道教であることは間違いないと言えるし、政治的な影響は強いが、その影響もまだ色濃くあると言える。