吉田博司著「朝鮮民族を読み解く」(ちくま学芸文庫)

・・・・朝鮮の歴史を振り返れば、それは朝鮮国内の権力者と朝鮮国外の強大国による圧迫と収奪の歴史である。力尽くでやって来るナムウリが現実的に勝てたことなど一度もないのである。遊牧民のモンゴルは高麗に馬と鷹を要求し、済州島を馬の放牧場にしてしまった。明国は朝鮮の仏舎利を要求し、釈迦の真骨を力尽くで奪っていった。女真族の清は、朝鮮から高麗人参と兵隊と女を奪い、明に攻め入り国を建てた。そして最後に日本はこれを植民地化し、融合せんと企てた。朝鮮のウリたちが選んだ道は、泣くこと、絶望することではなかった。絶望などしていたならば、生きていけな買ったのである。ウリが選んだ道は言語で自己を理論武装すること、「道徳志向性」で少しでもナムに対抗し、自己を有利に導く道であった。朱子学の「理」は東の果て、東の海の際に、この願ってもない培養地を見出した。それが朝鮮であったとしたら読者はどう思われるであろうか。・・p138


この文章に触れて、朝鮮の”恨”というのもなんとなくわかるような気がしてきた。

朱子学は儒教のなかでも、とくに変わっている。異端にも思える。

孔子の論語は、君子と小人の二分論で、支配者は君子になるための実践的論でもあったが、朱子は、その人間を聖人・君子・善人・小人・禽獣を道徳的な高さで分けたのだ。それゆえに、「理」と「気」の理屈はあるけれど、より道徳的に高いことが文明人であるという論理として朝鮮人には普及したのだ。


だからウリ(身内)とナム(部外者・オウトサイダー・敵)の二重倫理と同時に、自己正当化のために、つねに「道徳志向性」という、言ってみれば論法・手段で、相手と論じ合い、言い負かすことを戦法としたのだ。小犬がキャンキャン吠えまくるという方法だ。そして、その論拠が、事実ではなくて、「道徳性」をいう。だからその問題は正しい正しくないの問題ではなくて、道徳的な優劣の問題となり、ナムに対しては何をしても許されるということで、言い負かす、または謝らせるまでやるのだ。


朱子学の解説書を読むと、仏教の教えにも似てくるところが有り、それなりに道徳的な研鑽を求めることがあるのだけれど、そういう行動倫理も、個人の問題から集団に転化すると、ウリとナムの二重倫理に消化されてしまう。


宗族の問題触れたけれど、朝鮮人の社会は、中国よりも中国的になっていて、宗族という祖霊崇拝集団が社会の単位で、国民意識が作られていない。今、民族意識と宗族意識が混ざり合ってはいるけれど、近代国家の国民という意識が形成されていないのだという。北の近日成が宗族を破壊する動きをしたとか、前の朴大統領が同じように宗族の破壊を試みたけど、成功していないという。むしろ韓国の方がむしろ古い中国をずっている社会かもしれない。


韓国の反日運動は、永遠に終わらない。思想の近代化、宗族の解体が起こらない限り、朝鮮の近代化は起こらない。

この二重倫理で言えば、ユダヤ人のゲットー倫理と相似たものだ。

朝鮮とイスラエル・ユダヤ教徒の心理的な相似性があるように思える。

もう一つ、朱子学は、教条的になったために、多くの弊害を生み出している。一つは朱子学の現実的な利益追求と占いとか呪術的なこととが結びついているということだ。

二重倫理を形成したにしても、ユダヤ人と比べて、その世界的な存在感のないこと、それは中華的世界のなかの小世界でしかないからかもしれない。


朱子学の「理」は東の果て、東の海の際に、この願ってもない培養地を見出した。まさにその通りで、世界に類のない異常種を作り上げてしまったと言える。


パク・ウネさんはこの朱子学の遺伝子を十分に受け継いでおり、お父さんが試みた社会の変革を完成させることがなく、お父さんが否定しようとした社会の”朝鮮的思想”を体現していると言って良いだろう。


ウリとナムの関係で、もし中国が朝鮮のウリであるならば、とことこん甘える。ただ中国には文化の親だから服従しかない。もし、日本とウリになると、朝鮮の弟分という位置づけを要求し、そうなるとトコトコ甘えて、お金をせびっても構わないとという都合の良い論理になる。


朝鮮は、経済的にも実際の文化においても日本より貧しくても、「道徳な高さ」をもって優越感を抱き続けたいのだ。彼らには現実を見つめて、また時代の変化を読み解く力、知識がない。

いつまでも自分の世界観(朱子学的な儒教)秩序のなかででしか、生きていない。

永遠に交わることがない。彼らが気がついて、自らを変革しなければ、中国にも相手にされなくなるだろう。


ベトナムも儒教の影響を受けてきたけれど、中国と同じプロセスで、ホーチミンとベトナム戦争で、儒教的なものは跡形もなくきえているかもしれない。

強大国のナムに対して抵抗することを放棄してきた民族の、自らの自嘲的な悲しみを”恨”に感じる。たしかにこの民族の歴史は悲惨だと思う。ほんとに英雄が存在しなかった民族といえるかもしれない。国を変革する力や思想を持たずに終わったのだろうか。

被害者位意識を前提として、考え方が形成されているように思える。