インターネットが使えなくて、一週間が過ぎようとしている。今日ネットがつなげて利用できるようになった。

亡命チベット人の社会への支援活動をしてあしかけ8年になる。TCVの事務所のインターネットを利用させてもらう。久しぶりに勝又氏経済時評のブログを読む。また中国関係の記事を読むと、少し最近はおとなしいように見える。

私は最近中国がどのように変化してもどうでも良いように思っている。私のブログには、その様に書いている。彼らは西洋思想を根底から理解することもないし、自分たちが何時までも大国だと思い込みたいので、本来の危機感はでてこないだろうし、国民が改革・革命を起こすチャンスはすでに失われていると思う。再び儒教を持ち出してその現代化を試みようとすればするほど、我々から遠くなる。2000年に入って、宗族が各地で復活しているようだ。経済が少しよくなり、安定しているから復古的になる。さらに政治も共産主義のもつ西欧思想の根底を理解していないから、新しい社会を生み出すのは難しい。中国はあと30年の後にはわけのわからない国になっているかもしれない。彼らのすすむ道に巻き込まれるのだけは避けたい。

インドでも中国は嫌われている。昨晩インド人と話しをした。何しにダラムサラに来るのかと言うから亡命チベット人の支援活動で着ていると説明したら、中国のことになって、元警察官だという店のオーナーは、はっきり嫌いだという。インド人はRaviさんと言う。彼に「インド人はどん境遇にあっても自分らしくいて、幸福に見える」と言うと、

「そうだよ」と言う答えが返って来た。

彼らは自分たちが貧しくても、豊かでも、夫々が自分の道をすすんでいるように見える。そして楽天的だ。

彼らには西欧の個人主義と違う「個人主義」がある様に思える。彼らは精神的にもタフだ。そのことを少し考えた。

インドもチベット人も中国人も、伝統主義的な個人主義である。先祖と切れている意味でインド人とチベット人は近い。両者ともヒンズー教と仏教への信仰が深い。

西洋人の個人主義も先祖との関係でなく、個々人と神や仏陀との関係で捉える。然るに中国だけは先祖とのつながりにおいて宗教を形成している。イスラムは部族関係を大事にする。その点は中国と似ているかもしれない。

 

 

 

近代社会は、西洋においてこの血縁地縁関係を断ち切るところから文化を生み出している。ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの二つの共同体という捉え方から、近代人はゲゼルシャフト的な共同体を構成し、<自立した>人間お前提として社会を形成する。

ここでインドの個人主義を考えてみる。

その意味では個人主義と言うのは底辺でつながっているが、それが合理的な思考と倫理的な側面でどのように比較できるかと言う問題で見比べることが出来るだろう。

インド人の個々人は、おとなしいけれどゴーイング・マイウェイである。その代わりチームワークを組むのが苦手だ。その点はチベット人も共通しているように思える。

 

今インドにいて、スイス人のスポンサーと出会って日本のことについて話したが、彼らは日本について深い知識はない。当然だ。

西洋の小国、デンマーク、スイス、オランダ、ベルギー、ノルェー、スェーデンなどは国は小さいけれど平和で産業も豊かであり、人々は、自由に自分の人生を自分たちでコントロールしている国だ。私は西欧の小国こそこれから日本が目指す方向だと話した。日本はドイツに学んで大国主義の方針を採ってWWⅡを迎えるという失敗をしたから、そのような道は歩まない。われわれは平和が必要で、世界の国々、人々に役立つような国を求めるのだと、彼らと話した。英語で喋るから大変だ。

インド人も日本との関係が深まることを願っている。

中国より、インドの人々と深い関係を作るべきだ。英語で頑張って話すのも愉しい。

 

(このブログは書き直します)

ダラムサラにて

明日はセラクイへ向います。