岩波文庫金谷治訳注の「論語」の索引を見ると、この全体の中で、10か所に<民>という言葉が出てくる。この中でもっと有名なのが、

①巻第四 泰伯第八にある

<民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず>であろう。


②巻第三擁也第六

「民の義を務め」の句は「人民の勤める道を導き」と読む。


③巻第八衛霊公第十五35

「人民にとって仁徳は水や火よりもはなはだ必要なものである。水や火にふみこんで死ぬ人を見るが、仁にふみこんで死んだひとはまだみたことがない」


④巻第九陽貨第十七の16「民の三疾」

「昔の人民には三つの病弊というのがあったが、今ではそれさえだめになった。昔の狂(心が遠大にすぎる)というのはのびのび応用であったが、今の狂というのは気まましほうだいである。昔の矜(謹厳で几帳面すぎる)というのは折り目正しいのであったが、今の矜というのは怒って争う。昔の愚というのは正直だったが、今の愚というのはごまかすばかりだ」


基本的に論語は以前にも書いたように民をおさめる<君子>の書である。その君子が治める<民>というのは、知性教養道徳に欠けるものであるから、君子はその徳を磨き、仁徳で民を導かなければならないというのが前提に据えられている。


①は人民をおさめるのはできるけれど、それを説明するのは難しいということとしてとらえられている。

基本的に論語を主にしてみると、孔子がとらえる「民」は愚民として認識されていて、④の「民の三疾」に見る通り、<昔の民には、狂、矜、愚の三疾があって、これは現代の中国に当てはまると読む。


孔子は「民」は「仁徳」よりも「水」「火」という現実的な、しいて言えば欲得にふみこんで死ぬものがいるということを嘆き、<仁徳>の必要性を訴えている。

民がそうであるから、君子たるものは、仁徳・礼知に通じて、その行いを通して「民」を見t美観ければならないとしたのだと思う。

孔子は、とても平和主義である。秦の始皇帝が儒教を弾圧し、焚書をおっこなったのは始皇帝が目指そうとした統一国家に対して、孔子の教えはふさわしくなかったからだ。


巻第一為政第二

「(法制禁令などの小手先の)政治で導き、刑罰で統制していくなら、人民は法の網をすりぬけて恥ずかしいとも思わないが、道徳で導き、礼で統制していくなら、(人民は)道徳的な羞恥心をもってそのうえ正しくなる」

韓非子の君子の権力を法によって一元化し、体系化して強国をなさしめると考えたことが、後に、始皇帝の目指すものとして採用される。


<法>の概念が近代以前にあっては、権力者が定めるものという発想にあるから、これを順守するということがなかった。この法制史における西洋と東洋の違いも文明の形成に大きな差異を造り出して、さらに人民の「法」に対する態度も違ってくる。

韓非子の論調はマキャベリに近いかもしれない。勉強していないのでわからないが。


現代中国の人民は、インターネットや外国の情報も入ってくるけれど、「情報管理」が行われ、どちらかと言えば秦の始皇帝の態度に似ている。他方、西洋思想を自分のものにできなかった結果、毛沢東主義や中国特色社会主義の思想的背景を儒教に求めざるをえなくなっている。にも拘わらず、儒教の倫理的教えを実践することがない。


田中彰著「明治維新と西洋文明」(岩倉使節団は何を見たか)の本から引用する。維新後に西欧諸国を歴訪した記録から、教育に見る東洋と西洋の違いを指摘する一説です。

・・・・<東洋の学>は<道徳政治からはじまり、ひたすら「終身」の一科からおし進め、「無形の理学」「高尚の文芸」をもてあそぶ。「日用生理」のことはについては、これを「猥俗」だとしてまったく顧みない。だから教育は一般の人々には及ばない。婦人は「深閨の内に幽閉」せられ、「人生の快楽」を受けることもない。農工商の人々は「猥俗の整理」に追われて暇もないから、「人倫の道」を聞くこともない。こうして全国民文盲の中、「士君子」だけがその「志」を「高尚」にするにすぎない。これだから財産生理」もうとくなる。そのためにだんだん人々は貧困になっていかざるを得ない・・・・・

西洋はこれに反し、「財産生理」に困ることなく、「国民の義務」を果たすことを知っている。「学知する」ことが基本であり、「有形の理学」につとめ、「営生計理の実事」をこなしている。だから「修身の理」は宗教者に任せる。文化や学問は全国にゆきわたっており彼らはなお「未来の冥福」を求めてやまない。こうした人々は、その「生理を熟知する」ことにより「礼節」を知り、「野蛮の行」からも抜け出すことができる。ここに東洋と西洋の額の向いている方向が異なる所以がある。(p82)


<東洋の学>の方向は儒学そのものであり、「士君子」だけにの高尚な楽しみに過ぎないという指摘、この反省があって、日本の近代化への道がつくられる。

さらに「修身の理」を宗教に委ねることにおいて、宗教と学問の分離がでてくる。中国に置いては儒教は宗教であるからその分離の意識がでてこない。


さらに思い至ることは、儒学は秦始皇帝の帝国以前、周王朝の封建制度を前提とした<君子>論であったから、日本では江戸時代の封建制度に採り入れられて、うまく機能した。他方中国はその後封建制度をとることがなく、常に専制国家の体制をひいつぁから、ここに儒教自体の矛盾が生じている。つまり中国においては祖先崇拝の儀礼が中心になり、倫理面は形骸化し、論語にあるような「修身の理」はされる徳目ではなくなっていったのではなかろうか。

専制国家でさらに科挙制度で実力主義で官僚貴族がうまれてきて、さらに宦官もいて、その内部の抗争ははげしいものであったから、むしろマキャベリの論理、韓非子の論理が貫徹していたのではないかとすら推察する。


孔子がとらえた「民」は愚民ある。ここには上から「民」を導くという思想が支配していて、「民」は永遠に政治にかかわることがない。

<中国夢>は、反西欧思想に向かっていきそうだから、その未来は、わからない。

ただ外装だけは西欧的な模倣をして経済の繁栄を謳歌することはできるけれど、その経済を支える産業の革新する原理を習得できなければ、模倣は模倣で終わってしまう。

共産党の指導的思想の流布において中世のスコラ哲学が支配する革新のない学問的状況が支配するだろう。ルターのような宗教改革の声を上げる人物があらわれることを望むしかない。