今、私が関心を持っているのは日本人「心」のありようと世界の国々の「心」のありようというのは同じなのか、それとも違うのかということです。


中国や韓国の日本叩きのような行動、また戦前の軍部の行動ともかんれんするかも知れないが、「嘘」を自覚的に「つける」ことと、自覚的には「つけない」こととの真理上の差はかなり大きいと思う。

実は、岸田秀x三浦雅士「靖国問題の精神分析」のP12の岸田の発言に注目。

田中内閣の時に日中友好条約を結ぶために、中国は、<どこからか借りてきた理屈は、軍国主義者と日本人民を分け、悪かったのは軍国主義者で、日本人民も中国人民と同じく軍国主義者の犠牲者だったと。戦争は悪い軍国主義者が起こしたのであって日本国民じゃない、だから日本の国民と仲良くできるという理屈>を造り出した。

<そういう理屈に基づいて日本と友好条約を結んだのだが、この理屈が』嘘であることは中国側も知っている・・。しかし、この嘘を中国の国民に言い聞かせ、つじつまを合わせた>

だから、<小泉純一郎の靖国神社に反対するので、日本の軍国主義に文句を言ってるのではなくて、・・・これまで共産党政権を正当化してきた嘘の理屈を壊され、メンツ丸つぶれその理屈が壊されるわけですから>・・・

したがって、日本政府の首相がだれであろうと、<日中平和友好条約という建前がありながら靖国神社参拝を行うのは背信行為なんだというのが中国側の論理です>。

上の岸田の発言にあるのは、目的のために<嘘も方便>を使って、自国の国民に言って聞かせて、政府の行為を正当化したということです。

続いて日本の立場について14頁に岸田の説明があります。

<じつは、軍国主義騙されて強制されたというのは国民の自己欺瞞です。自己欺瞞をやっているとアイデンティティが崩れ、不安定になる。歴史に偽りを作ることですから。嘘なら嘘でいいじゃないかという人もいますが、嘘というのは結局アイデンティテイを壊す。それは神経症のメカニズムです。そういう自己欺瞞をやっちぇいると自尊心を維持できない。自尊心を取り戻すためには嘘を捨てなければならない。それを捨てると中国との友好関係が崩れるというジレンマにいま日本は直面しているのです。>


まず軍国主義者を創り出したのは東京裁判で、ナチと重ねた論理があって、その偽善的裁判の論理に準拠して、平和友好条約を締結した。それは日本との経済的関係が中国サイドで必要であったかだ。その時に、このようなまやかしを言わずに「未来のために日本の技術が必要だ」と言っていれば、問題にはならないものを、詭弁を使って条約を締結して支援金を求めたというのが、歴史的な事情であろう。中国は<嘘の論理>を政策達成手段と

して用いることに躊躇がない。

結果が手段を正当化するのである。だから<嘘>が真実になる。そこには心情とは関係なく<嘘>が成り立つ構造がある。

日本は、<嘘>を貫くことのっても不得手なことのようで、<嘘>を<嘘>としておくことが自らの<心情>に作動して、<アイオデンティティ>や<自尊心>の問題までに影響する。

日本人の<心>の問題なのだが、民族として<嘘を平気でつけない>のだ。

孔子に曰く「人の為に謀りて忠あらざるか、朋友と交わりて信ならざるか」。

日本人は孔子のこの言葉を常に実践することを心掛けた。<行>と<心>が結びつくから<自尊心>の問題になる。

正直、日本も戦後の経済発展のためには中国の市場もほしかったでしょう。中国は日本の支援がほしかった。お互いに本音を出せばいいのに、言いつくろった。

日本は外交においてもまた一般的な生活においても<嘘>=<悪>として教えられている。西欧においても<うそつき>というのはもっとも悪く相手をいう言葉である。

しかるに中国の伝統思考においては、<嘘>は<方便>として<心情・倫理>とは離れて使われるもので、<嘘に騙される者>が悪いという論理である。

中国を見ていてつくづく思うのだが、論語は知っていても、それは知識の問題で、実践の問題ではないのである。これがどういう背景でそうなるかと言えば、論語の捉え方、つまり孔子の教えを<儒教>の宗教面、祖霊崇拝儀式の実践に重きを置くか、<論語>としてその行動規範の実践に重きを置くか、その受け止め方の違いが、日本をして中国と韓国と全く異なる方向へと導いていったのだ。

日本人は中国人の儒教の宗教的側面、祖霊崇拝、先祖の崇を恐れる宗教の側面を受容しなかった。しかし、中国は儒教を宗教として需要してそれ雄崇拝岸の実践を重んじた。そして先祖を同じにする集団内部の倫理と、その外側の集団に対する異なる倫理を持つようになる。だから同じ宗祖の集団(ゲマインシャフト・家産制的集団)内では嘘をついてはいけないが、外に向かっては許されるという思考が形成されたのだ。二重倫理である。

汚職・賄賂がなくならないのもこの二重倫理の影響だろう。

私が思うには、中国共産党が真実の歴史をかけるとは思いません。<嘘>をつきとおして<真実>だと言い張るでしょう。そこには<モラル的な心情>は全くなく、スポーツや賭け事の<勝ち負け的感覚>しかないのです。

インド人は嘘がばれた時には、誤らないけれど「まずった」という表情をします。だけど中国人は「言い続ける」のです。


基本的に中国は市民社会の形成に失敗しました。その契機を失った民族に思えます。

いったん個々人が独立自立した人間になるには、<家産制的な枠>を壊さないとできないのです。日本は戦後、その封建的な家産制的な仕組みを打ち壊したのです。ですからここに<市民社会>を完成させることができたのです。しかし中国は今の国家も中国の王朝と同じ皇帝を中心にした家産制国家で、あの共産党員の集団が地縁血縁関係で構成されてゲマインシャフト的な、社会的な共同体になりきれないのです。


その原因もつまり孔子の教えにあるのです。

子曰く、「之を道(みちび)くには政を以てし、之を斉(ととの)ふるに刑を以てすれば

民免(のが)れて恥づること無し。之を道びくに徳を以てし、之を斉(ととの)ふるに

礼を以てすれば恥づること有りて且つ格る」と

【孔子は言った、「人民を正しく導くのに規則を用い、人民を統制するのに刑罰を用いれば、人民(悪いことをしても)恥じることがなくなる。人民を正しく道びくのに道徳を用い、人民を統制するに礼儀を用いれば(悪いことを)恥じるようになり正しい道に至る」と.】


ここに孔子が前提とする<民>は<政刑>は守らないので、<徳礼>を見せて導けというように解釈できる。これは論語でももっと有名な学而編に出てくるものである。

この<民>の概念を長いこと引きずってきた。

西欧と出会い、<民>の違いを見せつけられたけれど、中国の文化が世界一だと言い張ってきた。辛亥革命は結局宮廷革命に終わり、ロシアと同じ経緯をたどることになり、その政治的騒乱を共産党が把握したのだが、真の革命には至らなかった。したがって1991年にソビエトは崩壊して、なお<市民社会>を創り出せないでいる。

中国はそれ以前の段階で、毛沢東に権力を掌握されてしまった。彼は儒教と孔子を否定し、チベット仏教も弾圧することで、個人崇拝の社会を創り出した。

そこに彼が去った後に残されたのは「政刑」を恥じることがない「民」と「徳と礼」を失った指導者だ。

<嘘>を<嘘>としてつき通せる「マインド」と、それができない「マインド」の違いは、大きい。そしておのマインドの違いが作り出す「歴史」もまた大きく違ってくるだろう。

孔子は「民」をレベルアップさせるには、まず「君子」がレベルアップしなければならないと考えた。マキャベリの君主論との隔たりは大きいが、マキャベリは民衆を恐れた現実主義者であったが、孔子の教義に潜む「前近代的人間像」がある限り、また儒教と孔子を批判的に学問する自由がない限り、中国に新しい時代は生まれないように思える。

中国が経済的な破たんと混乱を引き起こす時に、初めて共産党のくびきから逃れて自由を求める社会の実現の可能性はあるけれど、経済的な大きな破たんが生じない限り、共産党は保守化して王朝化する可能性が大きいだろう。

「民」が依然として共産党の呪術にとらわれている限り、真の<革命>は生まれないだろう。天安門事件が中国の歴史から消えるとき、この国は近代化の可能性を今世紀では失うだろう。孔子がとらえた「民」が、経済的な華やかさの中で生き続けるだろう。自らが変革する契機を失っている。中國夢は、今をもって実現されていると宣伝するだろう。


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