7月27日から公開された映画「終戦のエンペラー」の原作、岡本嗣郎著「陛下をお救いなさいまし」(集英社文庫)を読む。この本はノンフィクションで、恵泉大学創始者の河井道の伝記であり、彼女の生涯において出会ったマッカーサー元帥側近、フェラーズ准将とのかかわりの中で、天皇の戦争責任を扱った作品です。

映画はまだ見ていないけれど、脚本はこの原作の河井道をまったく取り込むことなく、フェラーズ准将の物語にしてしまったようだ。

そういう意味で映画は原作にヒントを得て作られた別物といえるだろう。

原作は戦時中のキリスト者と天皇制との関係をあつかっていて、当時の日本人がキリスト者の立場で天皇制をどのように捕らえていたかに焦点がある。その一人として河井道の天皇への揺らぎのない支持とイエス・キリストへの信仰が矛盾していない情況を描いている。

「神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ」という天上の権威と地上の権威を分けて天皇制を捉えている。

著者は言う「河井という明治10年生まれの一人の女性の意識を通してみるとき、天皇という存在は、意識の底にはりついた堅牢な岩盤なのである。」「天皇に対する尊崇と愛着は揺るがない。土着の強靭さを見る思いだ。それがその時代における国民精神すなわち時代の風潮と呼ぶものなのだろう。」


映画はたぶん、この河井を登場させることなく当時の日本人の風潮を描き出し他のであろう。それはまた戦後68年たっても変わらずに、意識の底に張り付いていることをあらためて自覚させるものになるのではないか。


<天皇に対する尊崇と愛着は揺るがない>のはなぜだろうか。私自身、昭和天皇と現天皇をみている。天皇が終戦直後の日本各地を廻られたときの当時の国民の感情と、この大震災のときに被災地を見舞われた天皇の姿に、国民のことを常に考えられていられる姿を見る。

正直言って自由の国というけれど、天皇ほど自由のない存在ではないのかとも思う。

天皇を肌身に感じることはないけれど、日本人はこの職位を守り続けてきた。織田信長ですらその権威を奪取することなど考えていなかったといえるだろう。その権威とはいいかえればわれわれが与え続け手来たものであり、その権威に見合う振る舞いを長く続けてこられた、ということにあるのではないだろうか。明治維新・王政復古という日本での革命も歴史を時代に合わせるために「権威」の表層を作り変えたといえる。

国体護持というのは民族の基盤なのだといえる。もし天皇制を配して大統領制にでもしていたら、政治的思惑と経済的思惑とで日本人は、道徳倫理なき暮らしぶりになって、かえって今日のような発展はなかったかもしれない。むしろ天皇制があることで、中国との国民性が生まれてきているとさえ思う。

68年前に占領統治を恙無く執り行うには天皇が必要であった。

天皇は世俗の権威でもあるけれど、むしろ日本人としての倫理的権威でもあったと思える。それは天皇がその職務において無私無欲のお立場で国民と接してこられたからだと思う。戦国時代以降、天皇は権威として、つまり憲法にあるとおり、民族の象徴として維持してきたものといえる。

日本の天皇をエンペラーと訳すのは本来は間違いだろう。TENNOUそのもで表記すべきだろう。天皇は世界に例のない存在だと思う。


あらためてこの時期にこういう本を読み、その映画を見ると、日本が保守化するというのではなく、あらためて自分たちの歴史を見直すという作業が始まったのではないかと思う。

アメリカ映画が、「ラストサムライ」、「硫黄島」、さらにこの「終戦のエンペラー」とアメリカ人が日本の歴史の見直しを行っているように見える。

「はだしの元」の漫画の英語バージョンがアメリカの教材になったり、オリバーストーンがアメリカ史を見直すドキュメントを作成している。

これはアメリカがインディアン映画の見直しから続く自己反省の作業の一場面としてみることもできる。

日本に戦後史観を押し付けたアメリカが自らの歴史を顧みるようになってきたのだと思う。この先には新しい考えかたが生まれてくる可能性がある。


日本人が遠くにおいてきた<愛国心>をあらためて見直す時期にきたのかもしれない。健全な保守は必要だ。何よりもこの国は美しくあらねばならない。この国に住んでこの国を捨てたいと思うことはない。私はこの老年期になってあらためて日本人であることに誇りがもてる。そういう生き方がで切ることが大事なのだと思えるのだが、どうでしょう。


この本の主人公の河井道という女性はキリスト者で、女傑である。信念の人です。

私も掛かりたいとこの本を読んで思った次第です。