中国の経済発展は過去30年でかなりの成果を上げたと言えるだろうが、また多くの課題も残している。

私なりに中国の発展が続き、日本は普通の国になる野かなと思っていたけれど、この第四部で、3人の議論が面白い見方を示してくれた。

つまり中国はアメリカに代わって世界の覇権を握るかというテーマで将来を見たときに、3人が提起した問題はアメリカを中心としたキリスト教圏との対比で、この時にイスラム教も、またインドもキリスト教文化圏の副次的なサポート隊となるだろうという見方、そこにはロシアも入る。

そうなると、中国がGNPがアメリカをこえたところで、その世界での指導的立場には立てないだろうという見方であった。

このキリスト教的世界というものがいかに大きいかという認識を改めてさせてくれた指摘は、おもわずはっとした。

私も中国がその独自な原理で動いていくゆえに、また新たな文化価値を世界に提案できない限りにおいて、世界のレスペクトを得られないと予見している。きしくも同じことがこの第四章で取り上げられたことは意味があると思えた。

私は、自分があと何十年生きて行けるかわからないけれど、この世界がどのようなすがたに変わっていき、どのような日本が継続しているのかが心配であった。

だけど、最近であった「自覚的な資本主義論」や認知資本主義論における<公>の認識と政治哲学における<公共善>のとらえ方を見て、さらに民主主義を支える個人の自由とWebの発達による人間関係のコミュニケーションの広がり、それらの革命的な変革ので地球に住む人々が経済的な恩恵を受けて、貧困から抜け出して人間らしい生活をアフリカであってもニューギニアであってもアンデスの奥地でも、チベットでもできるようになるならば、人間は多くの殺し合いの代償を英知を向けて、新しい地球を大事にするという思想を共有できる世界が来るのではないかと期待できる。

中国は遅れてやってきた帝国主義者であるように見えるけれど、その合理的な思想の根底は平和主義である。外夷に対しての軍隊という思想はその根底にある。

ただ中国はこれ以上に巨大になることはないだろう。米ソの冷戦時代を引き起こす事態はないだろう。

中国は中国の原理で歴史を引きずっていくだろう。

むしろ国家という枠を超えた個人の自由を保障をどれだけ政治的に国民に与えられるか、というよりは自分たちで造り出せるかの問題になってくるだろう。

日本は基本的な意味で市民をもっていなかったし、自治を経験していなかった。21世紀はむしろそういう価値観に向かって歴史が作られていき、個々人の知的レベルと道徳的レベルと経済的レベルと自由のレベルの総合で、より平和で協調性のある社会を出現させることへの競争が興るかもしれない。


中国に関して言えば、経済発展を今後も継続させていかない限り、天意を継承したことにならなくなるから、その努力を続けることだ。トイレのレベルが日本のようになったときにはいい国になっているのではないかな。中国を近代化させて西洋の侵略からアジアを守るという出発点に立ち返れば、中国の発展はむしろ喜ばしいことである。


日本が犠牲を払って戦争をしたアジアの国々は白人の支配から逃れて、いま発展をしている。それを支援することは日本の役目だ。また中国は一番遅れて近代化を進めてきたランナーだ。そういう意味では毛沢東と田中角栄の会談で日本が戦争を仕掛けてくれたおかげで共産党が革命をなし終えたというのは真実かもしれない。

もう少し歴史を大局的に見て日中の関係を見直すのがいいだろう。

3人の学者の日本の将来はやはりキリスト教圏の文化の中でとどまって、その辺境的地位であっても、中国文化の理解者として西欧とのはざまで橋渡し役を演じるというのが課題ではないかと結論付けているが、それは肯定できる。

ただ日中の関係は、やはり日本の側にまだボールは残されているように見える。それをいつ乗り越えて相手にボールを返せるのか、それが課題であろう。

民主党政権といい、その以前には小泉政権が、あらぬことをしでかしたという意味において、まだ4半世紀はこのままだろう。日本が自己主張をできないのは中国との戦争を総括できないからだ。

中国は今の政治体制を維持し続けるだろう。人民がそれを望むならばだ。ただ経済的な破状が起きたときは不明であるけれど。