この本を実に面白く読んだ。第二部の近代中国と毛沢東の謎、第三部日中の歴史問題をどう考えるかなど、考えさせられるところが多い。

第三部の日本と中国の歴史問題ので語られている事柄で、日本が本当に中国に戦争を仕掛けた根拠が何であったのか、日本人自身が解明していないということが、よくわかった。

私もこのブログで書いているけれど、満州国の設立までは理解しても、なぜ中国と戦争をしなければならなかったのか、誰も説明していない。この盧溝橋事件以来の戦争と呼ばない日中事変は何のための戦争だったのか、これを学問的に実証した論文がない。

私の父も中国に出かけて戦争をしており、上海からの引揚者であった。父から戦争の話を寝物語によく聞かされた。でも何のために戦争していたのかは父もわかっていなかったように思える。

なぜに中国に攻め入り、南京を落城させてさらに大陸内に戦線を広げたのか。

この日中事変を引き起こした者たちこそ日本人自らが裁かねばならない犯罪者だ。それをさばいていないところに戦後の日本の中途半端な立場があって、謝罪謝罪と言われていても、その謝罪することの核心を日本人は理解していないのだと思った。


実際のところこの戦争には大義がない。そしてこの戦争が引き金となって太平洋戦争へとのめりこんでいった。太平洋戦争に負けてよかったのだけれど、だけど中国で無意味な戦争をしたことの責任は逃れられない。このことが我々が理解していない部分だと思う。

まさに中国への戦争はこの本でも指摘されているように国際ルールを無視した戦争である。ナポレオンがロシアに攻め入ったよりも悪い。戦争としても悪い。補給線を確保せずに戦線を広げたことと、軍部は何を考えていたのか。中国を日本が支配して植民地にでもしようとしたのか。そんなことをすれば列強の利害と衝突するのは当たり前である。

何を目的として始めた戦争で、どこで終結を図ろうとしたのか。その行動の論理がどこにもない。南京を攻略することで時の国民政府をどうしようとしたのか。

そもそも日本の戦略はロシアへの防御から起こっていたのではないか。さらに朝鮮の近代化であり、中国の近代化へ援助であり、アジアの植民地からの解放という大義が、この戦争にはない。ましてアジアの解放という大義もアメリカに宣戦布告してからのことだ。

当時日本にはアジア主義という思想の流れがあって、アジアの植民地からの解放を求める運動があった。しかし、その論理からしても中国と戦争をする理屈は成り立たない。

やはり当時の政策は間違えている。熱河をこえて北支に攻め入ったことがそもそもの間違いで、その軍部の独断を抑えきれなかった当時の為政者の責任は日本国民に対してまずもって謝罪されるものであって、国民はそれらの行為を裁かなければならない。

それがなされていないところにすべての問題があるように思える。


シナ人と当時の人々は今の中国人を呼んだ。その当時のシナ人と今の中国人と何もその本質は変わっていないように見える。利己的で営利には伝統的な感覚で鋭く、その暮らしぶりの感性は、変わっていないとみるべきだろう。

ただこの本で指摘されていることだけど、毛沢東の文化大革命は、日本の敗戦と同じくらいに旧弊な価値観をすべて打ち壊したということで、改革開放ができたという見方、これは日本の戦後民主主義の定着と経済発展とパラレルの動きだと思う。1989年の天安門の事件は、その流れの一部であったけれど、ここから中国は独自の伝統的価値観の世界に戻っていったと見える。


この本で、日本と中国の関係を見るときに、日本が仕掛けた戦争の総括を日本自身が行っていないことの無責任さが問われているということ。ここに日本的体質を見ることができる。

また中国は天安門事件(この本では深く論じられていない)以後の中国の近代化路線の定着は、文化大革命があって行われえたことと、共産党がなおも存続できている原理に中国の本質を見ることができるのだ。

それらが第二部と第三部で語られている。

この三人の議論の中で、中国から見た日本という言い方がなされている。歴史的にみた場合、世界の支配者であるちゅごくからすれば、その文化をまともに受け継ぐこともできずに、変なまねばかりしてる日本は辺境の田舎ものであった。その見方は彼らの本質だと思う。

日本はその辺境の地にあって朝鮮のように中国の儀礼制度に染まり切らなかったことが、違う価値観を作り上げていくのだが、その辺境性のゆえに日本は固有の文化を作りだしている。


ここで中国の本質とは何かという問題、この本の社会科学的な見方から出てくる中国理解のカギがいくつもあって、それが最後の章へとつながっていく。第四章を論じる前に、中国の本質を考える。