「プロテスタントの倫理と資本主義の<精神>」においてウェーバーは、制度上の合理化の進行と合わせて、心理上の合理化が一致して、歴史上に新しい「近代資本主義」を人間は生み出した。これは産業革命となって姿を現した。

それは機械的な文明は、合理的な国家や個人の職業選択の自由、身分制度の廃止、言論の自由を保証する合理的な法律、計算可能な簿記や会計制度などの歴史的な所産の上に成立していくものであった。


ウェーバーは営利追求の貨幣経済の資本主義というのは古代ローマ帝国の時代にその最盛期を迎えたことを「kぉ大農業事情」の中で分析している。その古代資本主義の資本とはまさに<奴隷>であった。またローマ市民という<自由民>を創出した。

ウェーバーは<近代資本主義>に対応する概念としての伝統的資本主義を<前期的資本主義><戦争資本主義><略奪的資本主義><国家的独占資本主義>などとさまざまな言い方で、歴史上に現れた貨幣経済での営利追求を表現している。

歴史的に見て、<奴隷>を必要とした資本主義は古代ローマだけであろう。そこにかけていたものは<動力>であった。西欧の歴史には地中海世界を舞台にした古代という時代があって、ローマ帝国が崩壊した後にヨーロッパが誕生する。アンヌ・ピレンヌの名著「ヨーロッパの誕生」がその経緯を分析している。ヨーロッパが誕生したことでアラビックな世界が生まれてくる。インド・アジア地域、遠く中国・日本は古代ローマ帝国後のヨーロッパ世界とは別個の歴史を形成する。

21世紀に置いて学問的に行わなければならないことは、西欧を中心とした歴史観を払しょくすることだ。歴史は地球上同時的に進行して時間を共有していたわけで、それとダーウィン的な進化論の信仰を捨てなければならない。マルクスの歴史観を放棄するところから見なおさなければならない。


日本の民主化が立ち遅れた原因は、日本社会党という共産主義を信仰する左派集団が存在したことで、政治的な近代化を損ねたといってよい。<社会主義・共産主義>というのはいったいなんであったかという問題が出てくるが、日本の政治の近代化を阻害した歴史上の産物であった。これはまた別の機会に書く。


地球規模で眺めた歴史の中に経済行為として最大限の富を生み出し、営利活動を行い、人間に多くの自由と新しい生活様式をもたらしたのはこの<近代資本主義>で、その成果は「中産階級」という経済的にも自立して政治的にも宗教的にも<自由な>市民の創出である。

ウェーバーが資本主義の精神を生み出した禁欲的生活多様式を採用した人々の歴史が一度きりにしか現れないと悲観的に眺めたとき、この制度を造り出した人々は歴史上から去ってこの制度内に住む<未人>によって維持されるという歴史を眺めている。

その流れの中で再び、これらの理念や思想がよみがえって新たな動きがあって、この制度の主人公になれるか、または新しい預言者があらわれて違う制度を造り出すのか、またはそのいずれでもない場合には<精神のない専門家や享楽人が>この鉄の檻の住民になると予言する。


私はウェーバーの見方からいくつかのヒントを得ている。

われわれはウェーバーが予言した地点kからさらに一世紀を経ている。日本や中国は西欧の、またアメリカの<近代資本主義>を受け入れて合理化の船に乗り込んだ。

ウェーバーがこの<近代資本主義>の生み出した成果について多くを語っていないように思えるが、彼はこの経済制度が、その制度の担い手に最高の自由度を持つ自律した人々がもっとも望ましく、またそういう人々を歴史上に作り出した制度であると言っているように思う。

人間が<不自由>の軛につながれるのは<政治的><宗教的><経済的><法律的>な側面である。もっとも不自由な状態が<奴隷>であって、マルクスは階級理論で常に非支配階級は<奴隷的>であると言った。それは歴史的な誤認であり、人間は<自由>のために常に闘争してきた歴史をもつ。

ウェーバーは古代にあっても中世にあっても自由農民という概念を大事にしていた。古代の最強軍団を組織したのは武器を自分たちで調達できた自由農民が基本にあった。中世にあっても自分の農地を持つ自由農民の存在、それに対応する都市での自由民の存在をギリシャ・ろーま・中世の都市に見出す。でもそれらの民は限られていたか、宗教的・政治的な権威に対しても不自由であったに違いない。ガリレオのごとく。


これらの問題意識は、アジアの近代化問題と中国の現状の分析のために必要とされるのだ。

特に中国に置いて歴史上、とてつもない実験が起こっているのだ。

ウェーバーの言う鉄の檻の外物はまねすれば作れるものとなった。機械的な制度、それは日本がまねして作り始めた歴史を見ればわかる。だからどこでもこの外物はまねして採用することができるのと、それに合わない制度<社会主義><共産主義的制度>は単なる幻影で終り、現実には強固な貨幣経済がその論理を貫いていく。

今の時点はウェーバーが予測しなかった時点に我々はいるということだ。

ウェーバーがこの<巨大な発展が終わるとき>と言った時期がきているのかもしれない。ロシア、中国をインドを、アラビアをこの制度が覆っている現在が、この<巨大な発展>なのだ。

この近代資本主義の原則は人間の経済活動の<自由>を前提に成り立つ。その<自由>は合理的な国家であり、法律であり、移動の自由と職業選択の自由であり、この制度のもたらすものは<自由>を前提とした<市場>原理なのだ。

この外物の発達により、地球上が平均化されていくことによって、帝国主義的な思想はなくなり、<競争>原理から<共存>原理に大きく価値観は変わっていく。

人類が産業革命を引き起こさなかったならば、地球は今もってもっと小さな規模で、中世的な暮らしをしていたかもしれない。


ウェーバーの預言は、最後のランナーとして中国人とみなすか、されにインド人がもっとその後塵を拝しているように見えるが、ウェーバーの預言、

<精神のない専門家、完成のない享楽人、これら無のものは、人類のかつて達したことがないような段階にまですでに上り詰めたと自惚れるだろう>という予言が当て張るように見える。

中國という近代資本主義を生み出した土壌ともっとも異質な地にこの外物が覆った時、今のような形になることを予見してたかのようだ。

そしてその前の言葉、巨大な発展の終わりに来るものが、新たな予言でもなく、これらの禁欲的な生活態度の再生でなければ、<シナ的な化石化>(機械的化石化)がおこるかもしれないという。

大塚訳では「シナ的化石化」という訳はとられていないのだが、ウェーバーにとって四〇〇〇年の歴史は<化石>のように見えたのかもしれない。

だとすると、その基本的な底流が再び、その外衣をはいで行く可能性はある。

ウェーバーを学んだものとして禁欲的生活様式を保つことで、この鉄の檻とと化した外衣につぶされないようにしなければなるまい。


内田先生が「よみがえるウェバー」という本を出版されると聞いているけれど、まだ出ていない。それはまた楽しみに待つことにしたいが、私のように、ウェーバーの最後の言葉を改めて検証する必要がこれから出てくるだろう。

私は、人類の歴史は<自由>を求める歴史であり、<自由>という観点から見なおしたら違った歴史が書けるようになると思う。そして今の経済的な営利が<幸せの尺度>という見方が変わると思う。

ゼロサム思想から共存の思想へ、寛容と慈愛の思想が再びよみがえる歴史的な時代に移行していくのだと思う。それゆえ、だらいらまの道徳の革命というテーマは歴史的価値があるように思う。

ちょっと飛びすぎたか。