「プロテスタンティズムの倫理と本主義の《精神»」でウェーバーが語った予言を改めて考察してみよう。


大塚訳岩波版P364、梶山訳安藤編p356

ゲーテの「ウィルヘルマイスターの遍歴時代」とファストの生涯の終幕によって我々に教えようとしたものは、「古代アテネの全盛時代が繰りかえされ得ないのと同じ」ように、「我々の文化的発展の経路では繰り返されえない」ということである。


ここでウェーバーが言わんとしたことは、プロテスタントの倫理が作り出した世俗内の禁欲的生活態度によって形成された市民的生活様式が、<繰り返されえない>ということだ。ウェーバーはこの時にすでに近代資本主義を造り出した生活様式の<禁欲的基調>が失われていくことを断じている。

<清教徒は職業人たらんと欲した、---我々はかくあらざるをえない>


ウェーバーはピューリタンのように生活をする時代がもはや繰り返さないこと見ている。そしてウェーバーは宗教革命がもたらした禁欲的生活態度が、人間社会の外衣を、いつでも脱ぐことのできる薄いものから、<運命は不幸にもこの外衣を鉄鋼のように堅い檻としてしまった>と見るのだ。

ウェーバーは近代資本主義というのは極めて合理的な経済的制度を造り出して、いまやその制度のもとで人間を包み込んでしまい、いやおうなしにその制度のもとで人間は『職業人』たらねばならなくされているというのだ。いまや人間の被造物に支配されているとみなす。


そして<勝利を遂げた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱(禁欲の精神)をもう必要としない。><世俗の外物はかつて歴史にその比をみないほど強烈になって、ついには逃れえない力を人間の上にふるうようになってしまった。>


この外物は近代資本主義的制度という鉄の檻になった。


ここに歴史のパラドックスが生まれてくるのだ。人間はもはやこの外物に疎外された存在になる。この外物は創造者を必要としなくなった。


<世俗的職業を天職として遂行する>行為が精神的な文化価値と関連性をなくしていて、経済的強制感じた場合でもその意味を詮索しなくなっていく。営利のもっとも自由な地域であるアメリカでは、営利活動は宗教的・倫理的意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果スポーツの性格を帯びることさえ稀ではない>


アジアの地域の近代化の問題を語るとき、この外物はすでに出来上がっているのでそれを応用すれば近代的な外衣をまとうことができる。

経済制度としてもっとも合理的で営利活動を肯定している制度であるから、適応することができるのだ。その例が日本であった。そして次々と外套を着替えるように新しいものにすればよいのだ。中近東のドバイや首長国連邦、マレーシア、シンガポール、台湾、韓国など、その鉄の檻をしつらえた。今中国がその行動をとっている。


だからウェーバーは最後に書いている。

<将来この鉄の檻に住むものは誰なのか>

ウェーバーの死後100年が過ぎようとしていて、その檻の中で我々は住んでいる。まだしばらく世界中の人々が住み続けるだろう。

<そして、この巨大な発展が終わるとき>

これはどういう状態をもってウェーバーが考えていたのか考える必要がある。

ウェーバーはその発展の最後に現れる≪未人≫は≪精神のない専門人、心情のない享楽人、この無のもの≫、で彼らは≪人間性のかつて達したことのない段階にまで上り詰めた≫と自惚れるだろう。

つまりこういう≪ミジン≫と言われる住民が最後に現れるということだ。そしてこの巨大な発展が終わるとき、≪①まったく新しい預言者が現れるのか、あるいは

②かつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、

それとも③一種の異常な尊大さで粉飾されたシナ的化石chinesische Versteinerung(-機械的化石化)おこるのか、それはわからない≫という。

シナ的化石chinesische Versteinerungとうのは梶山訳にあって大塚訳は機械的化石である。

もし、梶山訳であるとすると、アジア的停滞としての中國をとらえていたことが見えてくるが、


私は第二の事態が起こることを期待する。