(ニ)共産党の邪説は伝統文化と対立している

共産党の哲学は、中国真正の伝統文化と正反対である。伝統文化は天命を敬い畏れる。孔子は「死生有命、富貴在天(死生は命に有り、富貴は天に在り)」と考えている。[20]仏家と道家思想は有神論であり、生死は輪廻し、善悪に報いがあると信じている。共産党は無神論を信じているだけではなく、無法無天と主張している。儒家は家庭倫理を重んじているのに対して、共産党は『共産党宣言』の中で、家庭を消滅させるよう明確に書かれている。また、伝統文化では「明夷夏之辨(夷と夏の弁え)((民族共存の教え))」と教えているが、『共産党宣言』は『民族消滅』と鼓吹している。儒家文化は「仁者は人を愛する」との教えに対し、共産党は階級闘争を主張する。儒家の君王に忠誠し国を愛するという主張に対し、「祖国消滅」と『共産党宣言』の中に書かれている。

共産党は中国において確固とした政権を確立するため、まず人々の倫理思想を破壊しなければならなかった。毛沢東は「一つの政権を倒すために、まず世論を造り出さなければならない。つまり、イデオロギーの面でまず何かのことをしなければならない」と話した。[21]中国共産党はそれをかなり理解しているようである。共産党の暴力的な理論は、武力に支えられており、西洋思想のゴミのようなものであり、中国の五千年の奥深い伝統文化と対抗できないため、共産党は徹底的に中華文化を破壊したのである。そのため、マルクス・レーニン主義が中国の政治舞台に躍り出ることが出来たのである。

(三)民族文化は中国共産党の独裁を阻む 毛沢東は以前、「私は傘をさす僧侶である―無法(髪)(中国語では、髪と法の発音が同じ)無天だ」と話したことがある。[22]民族文化の存在は間違いなく、「無法無天」である中国共産党にとって最も大きな障碍だったであろう。

伝統文化の中の「忠」は決して「盲目的な忠」ではない。人々から見ると、皇帝は「天子」であるが、その上には「天」がある。皇帝は常に正しいとは限らないので、そのため、皇帝の誤りを正す大臣や官員を必要とするのである。また、中国には史官が皇帝の言行を記録する信史制度があった。士大夫は「帝王の師と為す」、皇帝の言行が良いか悪いかは儒家経典によって量られていた。また、人々は無道な皇帝を倒すこともできる。例えば湯が桀を伐ち武王が紂を伐ったことは伝統文化の観点からも不忠不義には当たらず、大逆不道でもなく天に替わって道を行ったことになる。[23]文天祥[24]が捕虜となり宋朝の皇帝自ら降伏を勧めたがこれを聞かなかった。儒家では「民を貴と為し、社稷は之に次ぎ、君を軽と為す」と説くからである。[25]

これらのことは独裁中共にとって許されないことである。彼らは「主要な人物を神格化しよう」(即ち、個人崇拝)と願い、自分の上に存在する伝統文化の中にある「天、道、神」などのものに束縛されたくなかった。それは、伝統文化での共産党の言行を量れば、全部極悪なものであり、伝統文化が存在する限り、人々はその「偉大さ、光栄さ、そして正しさ」を賞賛しない。学識者たちは「命を捨て義を取る」[26]、「君を軽と為し、民を貴と為す」などの価値観を残せば、彼らに従うことをしないので、全民が「思想統一」することはないだろうと共産党自身も分かっていたのである。

伝統文化の天と地への敬畏は、中国共産党が天地と戦うための障碍である。伝統文化の中の「人命は天に関係している」という考え方は命を大切にすることを訴えている。しかし、これは中国共産党の「集団虐殺」による恐怖統治を阻む。伝統文化の「天道」は道徳善悪を量る最終基準である。しかし、共産党には道徳を解釈する言葉はない。そのため、中国共産党は伝統文化が彼らの政権維持にとって最大の障碍であると見なした。

(四)伝統文化は中国共産党の執政合法性に挑戦する

伝統文化の中には「有神論」と「天命論」を含んでいる。「天命」を承認すれば自分が「有道明君」であり、「奉天承運」を行っているとの証明になる。「有神論」を承認すれば、まず「君の権力は神から授けられた」と認めなければならない。また、中国共産党の執政理論は「救世主など存在しない。人類の幸福を創り出すのは、神仙や皇帝に頼るのではなく、私たち自分自身に頼るべきだ」と話している。[27]

中国共産党は「歴史唯物主義」を宣伝し、「共産主義」は「人間天国」であると宣揚した。また、この「人間天国」へ導くのは「無産階級先鋒隊」である共産党の指導である。有神論を認めれば、中国共産党の執政合法性に挑戦することとなる。