三 天と戦い、信仰を迫害し、神に対する人々の信仰を否定する



(一)有限の生命が如何にして無限の時空を認識するのか



アインシュタインの息子アルベルトが父親に聞いたことがある。「お父さんはどうしてこんなに有名なの?」アインシュタインは、「この大きなボールの上を目の見えない大きな甲虫が這っているのが見えるかい?そいつは、自分が這っている道が曲がっているということを知らないけれど、アインシュタインは知っている」と答えた。この言葉は実に意味深長である。中国に「廬山の本当の姿を知らないのは、その身が廬山の中にあるからだ」という諺がある。もしあるものの体系を知りたければ、必ずその体系の外から考察しなければならない。ところが、人の有限の生命を以って、宇宙の無限の時空を観察しようとしても、人類は永遠にその全貌を知る術はなく、宇宙も人類にとって永遠の謎となってしまうのである。



科学が超えられない障害は自ずと形而上的なものであり、それは当然のことながら「信仰」の範疇と見なされた。



信仰という人間の内心世界の活動、すなわち、生命、時空、宇宙に対する体験や思考は全く政党が管理すべき範疇のものではなく、「神のものは神に帰し、カエサルのものはカエサルに帰すべきである」[15]。ところが、共産党は自らの宇宙と生命に対するかわいそうなくらいにばかばかしい認識に基づいて、彼らの理論の外にあるもの全てを「迷信」と称し、さらには、有神論者を洗脳、転化し、悉く打倒し、ひいては肉体を消滅させるのである。



真の科学者の宇宙観は開放的であり、自身の有限の「既知」により無限の「未知」を否定するなどということは決してしない。著名な科学者ニュートンは、1678年に出版された大著『数学原理』の中で、力学原理について詳述し、潮汐の原理や惑星の運行について説明し、併せて太陽系の回転方式を算出した。ニュートンは、これほど大きな成功と名誉を勝ち得たにもかかわらず、自分の本は全て現象の記述であり、自分には、最高至上の神が宇宙を造った真の意義を論ずる資格など無い、と再三表明した。『数学原理』の第2版が出版された際、ニュートンは本の中で次のように記して自らの信念を表した。「太陽、惑星、慧星を含むこの善美を尽くした大きな体系は、全能の神の手によるものである。……まるで目の不自由な人が色に対して全く概念を有していないのと同様に、我々は神が万事万物を理解する方法に関しては全く何も知らない」。



時空を越える天国世界があるかどうか、また、修煉する人が返本帰真の境地に達しうるかどうかはさておき、真に正しい教えを信ずる人は皆、善悪に報いがあるということ、つまり因果関係の原理を信じている。正統な信仰は人類の道徳をある一定レベルに保たせることができる。アリストテレスからアインシュタインまで、彼らは皆、宇宙には普遍的な規則が存在すると信じていた。人々は様々な方法で絶えず宇宙の真理を探究してきた。ということは、科学的探索以外にも、宗教や信仰、修煉も真理を発見するための方法や手段でありうるのではなかろうか。



(二)中共は人類の正しい信念を破壊する



世界のどの民族も皆、歴史上、神の存在を信じてきた。正に神に対する信仰があり、善には善の報いがあり、悪には悪の報いがあると信じているからこそ、人々は心の中で自己を律することができ、社会の道徳水準を維持することができるのである。古今東西、西側の正統な宗教も東方の儒教、仏教、道教も皆、人々に、神を信じ、天を敬い、善に従って福を惜しみ、恩に感じてそれに報いることを知っていれば、本当の幸福を得ることができると戒めてきた。



共産主義の中心的指導思想は、神も佛も道もなく、前世も後世もなく、因果報応もないということを宣伝することである。従って、各国の共産党は、貧乏人やルンペンプロレタリアートに対して、神を信じる必要がなく、業力も返す必要がなく、おのれの本分を守る必要もなく、かえって金品や権利をペテンや暴力で奪い取り、造反して財を築くよう、奨励した。



中国では古代、皇帝たちは「九五の尊」と称されながらも、自らを「天の子」と称し、「天意」の統轄と制約を受けており、折につけ詔を下し、天に懺悔して自らの罪の許しを請うた。しかし、共産党は自らが天意を代表すると言い、眼中には法も神もなく、如何なる制限もなく、その結果、人の世の地獄を作り上げてきた。



共産党の始祖であるマルクスによれば、宗教は人々を麻痺させる精神的なアヘンである。彼は、人々が神を信じ共産主義を信じないことを恐れた。エンゲルスの『自然の弁証法』の第1篇に収められているのは、ウォレス[16]の「心霊学」研究に対する批判である。



エンゲルスは、「中世及び中世以前においては、すべてのものは人類の理性の審判台の前で自己の存在理由を弁護しなければならなかった」と述べたことがある。彼はこう述べると同時に、すでに自分とマルクスを審判台の前の裁判官であると見なしていたようである。無政府主義者のバクニンはマルクスの友人である。彼はマルクスのことを次のように形容している。「彼はあたかも人々の神であるかのようである。彼は自分以外のほかの人が神であることが許せない。彼は人々に、自分を偶像として神のように平伏し崇めるよう求めた。さもなくば、酷い罰や陰謀迫害を加えられた」。



しかし、伝統的な正しい信念は、共産党人のこの企てにとって天然の障害となった。



中国共産党の宗教に対する迫害は、病的なレベルにまで達していると言えよう。文革中、無数の寺院が破壊され、僧侶は町を引き回され見せしめにされた。チベットの90%の寺院が破壊され、中国全体で今日までに、数万の地下キリスト教会信者が拘束された。上海のカトリック教神父・Gong品梅さんは中共により30年あまりも拘束され、1980年代末になってやっとアメリカへ渡ることができた。彼は90数歳で亡くなる前に残した遺言で、「共産党が中国を統治しなくなれば、私の墓を上海へ移してほしい」と述べた。一人の人間が信仰のために残虐な邪悪勢力により30年もの長きにわたり密かに拘束されていたのである。中共はかつて何度も彼に、中共の「三自愛国委員会」[17]の指導を受ければ、すぐにでも自由の身にさせてやると迫った。また、近年、中共は真善忍を信仰する法輪功修煉者に対し迫害を加えており、これは正に中共の「天との戦い」の延長であり、中共が躍起になって陰謀を遂行しようとしてきた必然の結果でもある。



無神論の共産党は、神に対する人々の信仰を誘導しコントロールしようとしている。「天と戦いてその楽しみは尽きぬ」とは、なんともばかばかしく、「思い上がりの自惚れ」という言葉ではそのばかばかしさを万分の一も形容できない。