ページから加地の著書にはなるほどと思うことがたくさんあって有益だが、前回に触れたウェーバーへの批判と次に個人主義のもんだいに対する加地の批判について、ちょっと納得できない部分がある。


加地の批判は個人主義は、西欧的な思想の受け売りで、それは利己主義に陥るのみという批判だ。

第5章の6、家族中心か個人主義かの項に加地が分析していることを取り上げる。

加地の現代的日本の風潮の批判なのだが、どうもしっくりこない。たしかに、戦後60年以上たって、家族主義から個人主義的思想に変化させてきた結果、利己主義になっているという批判んで、個人主義そのものを否定するがごとき言論であるのが気に障る。

どうも嘉治jは、儒教を用語するあまり、学術的立場からはみ出していて、自分の判断を無条件に押し付けているように思えてならない。

儒教における家族の意味、またそれに基づいて作られた制度、また<孝>という概念との関係、それらの体形と、朱子学以降の儒学によって発展された<忠>概念と家族の論理から生まれた<家>思想によって形成された封建的な日本の諸制度、それを論理的に説明し、さらにその後の西欧的な思想との融合を跡付ける。または、西欧思想との違いを際立たせた上で、論議するなり実証すべきだが、それが観念的に言われているので、そういう印象を持つ。とても惜しい。


言い換えれば、個人主義という思想は儒教にはなくて、自由という概念もないという分析。したがって、西欧的個人主義を導入する過程において、神との対話を持たない日本人は、勝手に動き出し、それで利己主義=個人主義になるという加地の意見には同意しない。

自由という概念に対して道理という訳語をいいというけれど、道理をわきまえるという意味と<フリー>の持つ<自立>、<解放>という側面が語られていない。そもそも西欧的<自由>概念や<個人主義>の概念の理解が私には嘉治の理解が不十分だと思える。それはウェーバーの理解と共通している。

ウェーバーは西欧的なそれらの宗教的な価値観と戦いつつ<学問>という立場を守ろうと悪戦苦闘してきた。その経緯いを理解せずに儒教を的価値観を押し付けてるように見える。私たちは純粋な儒教だけでなくっ仏教という宗教も、また日本神道の価値観も共有していて、一概に個人主義だから利己的になるという発想はどこか論理の飛躍がある。


では逆に西欧思想を否定して儒教的価値観に戻れば、それでいいのかと言いたい。

嘉治が儒教を強調するあまり、学者としての位置をはみ出していることに不満がある。

かれの言うとおり、儒教の宗教性は祖霊崇拝の思想として日本人は仏教の形の中に持ち続けるだろうし、天皇制という形において、その宗教性を体現し続けるだろう。家族概念も儒教的思想から西欧的な思想と仏教的思想も含めて作り変えられていくだろう。

日本人の思想の特性は<柔軟性>と<寛容性>にあって、新しいもの、優れたものに対して<素直>であり、それらを受容するということにいささかも躊躇しないということだ。

とすれば、儒教的思想教育の結果、我々は天皇制絶対化を進めて、第二次世界大戦に突入したという歴史的反省の上に、儒教の一側面を否定しているのであって、加地は現在の日本人批判すtる時に誤った立ち位置にいる。

加地の言う天皇制の維持や靖国神社論は皇帝できるけれど、それは儒教という立ち位置から見ての話。これからの日本人がどういう立ち位置を選ぶかはそれぞれの信条による。だからその信条の在り方は<自由>である。自由というのは自己責任の上に成り立つもので、それイコール利己ではない。


儒教の国、挑戦と中国の行動をむしろ加地は分析すべきだろう。

北朝鮮でキム・ジョンイルが金日成の光景として3年の喪に伏したのもうなづけるし、韓国のヤンパン的行動も理解できる。朝鮮の近代化を阻害した要因は儒教的制度に基づいたヤンパンの支えた宗王朝だ。

現代中国を加地に分析してほしいと思う。

日本は儒教の宗教性を仏教に取り込み、また天皇制という形で体現している唯一の儒教実現国家だ。

さらに儒教の倫理性を武士道にまで高めて日本人の実践倫理にまで変容させた。今のの日本人は<サムライ>であることを良しとしている。

中国と日本の違いは日本人が儒教を生かしていることだ。孔子は<実践>が大事だと何度も述べている。それは実践されないからそういうのだ。日本人は実践して来た結果である。

現代の日本への批判とするならば、儒教と仏教を融合した思想の上に西欧的思想をどのように接ぎ木するのが良いのかを示すことであって、西欧的価値観を否定することではない。


それと中国や朝鮮に対して靖国のもんだいを言うに当たって、二つの句には儒教を現在どのように血肉化しているのかを分析して言わないと理解されないだろう。

肉体と霊の儒教的解釈と、政治的行動とは別物だ。儒教の国なのに批判するのはおかしいといってもなんの問題解決にもならない。むしろ日本の立ち位置として儒教的裏付けを論理的にして主張するしかないだろう。彼らが天皇制を批判すること自体に舵の儒教分析から言えばおかしなことになるわけだから。


改めてカジノ儒教の研究と日本人として奥深く入りこんでいることが理解できたことは大きい。しかし、儒教という宗教の持つ限界、それは現代や未来、平和、世界的価値観を共有するという意味においての言かいなどを示さないといけないだろう。儒教を無批判的に皇帝することはできない。


更に大事なことは、私が儒教を研究しだした動機、つまり、現代中国のあの倫理性の欠如の由来である。

儒居のもたらした形式主義、事大主義と利己主義的経済行為の由来がすべて儒教にあると、逆説的にカジノ本を読んで思った。

いま、中国は共産党イデオロギーが波状をきたして、今一度毛沢東主義にもどるかもしれない。しかし文化大革命のきちんとした総括をしていないから、毛沢東主義にもどるといっても難しいだろう。再び儒教の復権があるだろう。その時の中国人の儒教の理解がどうなるのか、先日の朝日新聞の記事のように、倫理性を欠いた者になるのだろうか。

儒教は<天>という概念を持っているが、それは世界や宇宙とつながらない概念なのかもしれない。地峡という外苑より自分たちの世界が<天>であるようだ。


儒教の持つもう一つの側面を考えてみようと思う。つまり、現在の中国を生み出した儒教的背景である。そういう意味で儒教が変容して見せる狂気の沙汰こそ注意して否定しなければならない側面だと思う。