儒教というのは宗教であると言われるのに、その宗教的側面がなんとも見分けられていないのが不思議である。一般に宗教と言えば宗教的な宇宙の解釈や神の解釈や死と救済などについての体形があるのに、儒教だけはその体系を私はしらないでいた。

儒教というのは単なる儀礼・倫理の体形程度にしか考えられなかった。それではまずいので少し勉強をする気になって加地伸行著「儒教とはなにか」中公新書と同著「沈黙の宗教ー儒教」ちくま学芸文庫を買って読む。全部は読まないが、拾い読み。

 

この本は儒教の宗教的側面を解説してくれている本で、面白い。著者は中国の哲学思想研究者だ。

「儒教とは何か」の中でマックス・ウェーバーの「資本主義の精神」論に触れて、めちゃくちゃな解釈で批判しているに出くわして、読む気を失ったが、彼の儒教の解説を理解するのと、彼のウェーバー解釈のレベルとは別問題なので、我慢して儒教の解説だけを理解する。

それと同時に、日本が授入した中国仏教が、需要によってかなり変質していたという視点を得た。

今の日本の仏教で重視される、墓、遺骨、位牌などの思想はインドの仏教とは無縁のものであった。それが中国から伝来した仏教を取り入れることで封建制度の家の意識が日本の思想に取り込まれるようになった。

加地は日本の仏教で大事にされている「墓」「葬儀」「戒名」「位牌」などはすべて儒教から取り入れられたものであるという。これは目から鱗の話。

考えてみれば仏教伝来以前に儒教は成立しており、それとの妥協のなかで仏教が中国に広がったわけで、そこで対立していれば、仏教は排除されていただろう。儒きょいうが宗教として伝搬したのは朝鮮である。日本には、これは私の見方だが、儒教の宗教性が中国仏教に取り入れられたものが伝搬してきて、宗教性の側面が薄れた礼教的側面が取り入れられた。それは支配者の道徳的修養論、人格形成に必要な道徳論として取り入れられてきたのだと思う。

なぜそういえるかというと、それこそ加地の言う儒教の宗教的側面である。

 

宗教の原始的形態としてシャーマニズム、シナ古来にあってはそれを儒と言った。

そのシャーマニズム的原始宗教を論理的な体形に完成させたのが孔子ということになる。

この宗教の発展経路はどの世界宗教も同じだと言える。

 

人間は太古から不可思議なるもの、人知を超えるものに対して何とか説明できる解釈を施し、その不可知なる力と人間界をつなぐものとしてシャーマンを生み出してきた。

そのシャーマンが霊的世界や不可思議な世界に結びつくための儀礼が作り出された。またその霊力が人に移って言葉を発したりするための儀式なども生まれた。そういう儀礼的なものと世界の解釈とを理論づけられて一つの宗教体系が作られる。

儒教もそういう系統を持っている。

宗教の原初は人間の〈死〉に対する考え方からくるのかもしれない。

加地さんの本を読むと実に面白いことがわかる。

改めて書く。