7月6日

今日は何予備だろうか。朝5時のつもりがもっと早くにしまった。昨日の日記を仕上げ、パソコンルームでメールをチェックする。

7時前にピースハウスのポールのところに女性が全員清掃して集まり、法王の誕生日を祝う儀式を始めた。

7時15分過ぎにバスケットグランドに行くとサマーキャンプの子どもらが集合している半にバスが来て、一緒に乗せてもらう。社内はチベットのチュパを着込んではいるが、言葉はネイティブアメリカンだ。多くの子どもがアメリカで生まれて育っている。この子らはチベット語をしゃべれるのかふと疑問に思った。

マクロードのバス広場まで車内はアメリカンだった。ツクラカンにつくともうすごい人だ。8時前だけどTCVの子どもも沢山いて、シニアースクールの子どもが私を見つけて挨拶する彼の名前をノートに書いて もらう。ロブサン・ニマという子で17歳。また会いに行くと言った。

外国人の入り口は別になっている。モバイルは持っていないというと通してくれた。もちろんカメラもビデオもだめだ。中に入るともうサマーキャンプの子どもらの特別席などへは近づけない。b所確保して座り込み、ノートをつけていると隣の女性が覗き込む。日本文字だよというと、日本人だって、と言うように隣の女性に言う。

正面の席などろくに見えない。インド人も何人かいる。白人も多い。ヘルスセンターのナースに出会う。チベタンの

女性は晴れ着のチュパを着ている。

8時35分に参加者が現れた。招待者かな。

8時40分にパレードの音楽隊の演奏が始まる。チベタンバグパイプの音とチベントランペトと大太鼓と小太鼓。

8時45分に音楽隊が入場する。会場ではさかんに「マシュー、マシュー」と声がする。これはしゃがめという前の人たちへの掛け声だ。この音楽隊はチベットの男女の正装で見場もいい。世界に通じると思う。魅力的だ。

8時50分にアナウンスがあり、チベット歌曲がBGMで流れる。高僧のお坊さんが現れて参列。インド人の招待客。9時5分前、会場は人声とざわめきだけで静かになる。

8時58分、トランペットが鳴り、演奏が始まるとさらに地位の高いお坊さんが現れる。ダライラマをあらわす黄色の笠と言うのかな、見えてダライラマの登場だ。みな手を合わせて拝む。ダライラマと言う掛け声も飛ぶ。現れたときは離れていて判らなかった。

9時2分。たぶん席に着かれたのだろう拍手が起こる。

それからアナウンスがあって全員が起立する。チベット国歌の斉唱だ。私も口ずさむ。

9時5分。新しい歌が歌われる。そして全員着席。と言っても中庭に直に座る。

音楽隊の演奏と唄があって、その後に退場する。

9時10分。セレモニーの開始。

9時15分。仏像への儀式。

その後、主事が読み上げられる様子。

9時30分に長い祝辞が終わり、さらに続くが、9時40分ころからバター茶とビスケットが振舞われる。

10時にインド人の招待客が祝辞を述べる。英語だから。そのころには場所を変えて通路に出てしまった。ロブサンとホームのアマラがいた。

ホーム13と30と5のアマラで犬の話で盛り上がる。30のアマラが全員の写真をとってほしいと言うので今夕6時に行くと約束する。

10時10分にたぶんお客さんにカタを渡す儀式を強いるのだろう。静かになる。10時15分、聞きなれたダライラマの声だが、マイクが悪いのか聞き取れない。彼女たちもダライラマの声だとは言うけれど聞き取れないと言った。ダライラマの声に力だがない。かなりくたびれていると思われる。歳をとったという感じが否めない。これは大事だ。

10時28分。お話が終わる。

私は法王が通られる前に出た。

30分にチベタントランペットが鳴り、法王が退席される。目の前を通られるたが、残念ながら私の前では顔を向こうに向けられてて、正面から拝見できなかった。

法王がパレスに入られると通路が開放されて、みんな前に行く。祝賀の踊りや歌を見たいのだ。夜まで続くと言っていた。

私は戻ることにした。写真屋によりプリントを頼む。今回は300ルピーだ。

リキシャでTCVに戻る。Bediの事務所の前でアショクにあう。

いまちょうど午後1時だ。これからナワンの家によりマクロードに行く。

リキシャで出掛けてツクラカンに行ったら、もうすべての行事が終わっていた。なんてことだ。夜までやるって聞いていたのに。というわけで法王のお祝い行事はおしまいです。帰りに写真を撮る。インドの店、マクロードガンジの変化を感じるような写真を撮る。

歩いて帰ることにしてBediの前を通るとホーム29の女の子がベンチにいて写真を撮ってというから写してあげる。一人はヘルスセンターのナースの妹で、一人はマッサージに来た子で明るい子だ。はじめての子だけど、そも子が<JAPAN is my Dreamという。10月に来るときに日本のファッション雑誌を持ってきてあげるというと喜んだ。それからいつもの道を歩いていくと、TCVでであった事のある人と言葉を交わし、いつの間にかインドにおけるチベット人のビジネスのことで話し合うようになって、ハンドクラフトセンターまできて、さらにグランドの脇で話しを続けた。

はじめハンドクラフトセンターのマネージャーかとも思ったのだが、シニアースクールの校長先生であった。先日会いに行って会えなかった方で、教科書の話しをしたら準備しておくという。とんでもないところで長く立ち話をしたものだ。とても有意義な話しをしたいい、私は名刺を渡して、彼にはノートに書いてもらった。

そして明日の午前10時にオフィスに来てくれということになった。特に私が言いたかった勉強が実社会の経験に結びつかず、リアリティのないままに学び、試験のためのものに勉強がなっているということと、リアリティとジョイントさせる仕組みを作らないといけないということであった。

雨が降り出しそうなので明日を約束して別れた。

それからナワンの助けを借りて、モバイルを直しに行く。バッテリーも大丈夫で、チャージャーも大丈夫だったが、お金がなくなっていた。200Rsをプリペイして動くようになった。

いったんピースハウスに戻り、パソコンルームでメールをチェック。

すごいスコールになったが珍しく停電がなかった。6時にホーム30に約束していたので出掛ける。

子どもらの写真を撮りながら生まれを聞くと、半数がチベットだった。ダラムサラの2世3世もいた。撮影を終えて帰ろうとすると、アマラがお茶を飲んでいけということになってアマラの部屋に入った。

ホーム2のアマラは評判がよくないことを言う。それは私のかかわる所ではなくいて、ディレクターの問題だといった。アマラが変わっても、2は変わらないという。年齢もあるよといった。アマラは若いアマラがいいと自分の意見を言う。ギュメの問題も話した。小さいでしかものを見ない。私が一番彼のことを気にかけているといった。

そこへロブサンがやってきて、ここでもダスークローズの使い方と部屋の掃除とのことを話す。チベット本土とインドは違うのだから、自分たちが安全に住むための方法を考えないといけないことなのに、インドはメニーデンジャラスだと言ったら大いにわらった。ォブサンと私の下手な英語でも真剣に話しをっして聞いてくれた。

彼女に私ができるのは単なるサジェスチョンと江川さんのように教える技術もない。だからサジェシュトはしてもそれを受け止めて、やるのはチベタンだから、お前の言うことは理解できないとか、受け入れられないなら、役にたたないのなら、ここへ来る理由もなくなる。自分も日本で妻を置いて長い時間ここで過ごしている。三人とも家族の支えがあるからできるので、層でなければできない。それに自分は歳だから、残りの時間を妻と過ごしたいという気持ちもある。今日ロブサンが話を受け止めて、少しでも私たちのことを理解してくれるなら、自分はまだ続けられるだろうということまで話した。

ちべたんが狭い自分たちの世界しかみない習性をなおさないと、変化しないということを語った。8時30分成ったのでホーム2には行かず、部屋へ戻る。そう食事もご馳走になった。暗い道をライトもなく歩くにはとても困ったが、部屋に戻れた。

パソコンルームで、メールを書く。11時に寝た。