6月28日

部屋でパソコンを開いて8時までいて、食事になった。

Dekiが食事当番のはずが違ってて、フレンチトーストはお預け。

マリアさんから電話があって、11時45分にバスターミナルで待ち合わせることにした。部屋で写真の整理をして、今日プリントする写真を整理。それとスマホの充電をして写真をパソコンに移す。

9時にツエンキーさんの事務所に行き、デキに写真のコピーをパソコンにさせる。その後、TCVのろぷじんホームのTseringに写真と、認定書を手渡しに行く。山の上の家。シニアースクールの上にある老人ホームの一番上の建物だった。おばあちゃん達に写真を見せてたずねると」、チベット語で何か言う。それとなく意味がわかるような気がする。無事探し当てて写真と認定書を渡して写真を撮る。

その後ヘルスセンターへ行く。ナワンの奥さんと若い事務担当の娘がいておしゃべり。そこへ個々で働く男性が現れて、「ラストサムライ」を見たと言い出して、そこから英語の会話が続く。

11時になったのであわててマッロードへ歩いて向かう。

11時35分にプリント屋について、10分で注文を済ませる。400Rs.

バスターミナルでマリアさんを待つ。

少し遅れてマリアさんが現れた。結局チベットキッチンに行くことにした。店に行ったら注文は12時からということで、席に座って話しているうちにオーダーの字簡易なって、私は鶏肉ツックパでマリアさんはモモを注文する。ここの店で驚いたことは、ユニホームのシャツを着用し、注文は品名を復唱する。テーブルは四角の付近で拭いていく。

いつものいい加減な応対が変わってきているのに驚いた。

料理もうまい。モモは醤油のようなソースに唐辛子のスパイスを少し落として、それをモモにつけるとちょうどいい。料理を済ませてから2階のカフェに行き、チーズケーキとコーヒーを飲む。こんなのはじめて。ここのチーズケーキはお勧めだという。

マリアさんと話した内容のうち大事なことを書いておく。

マリアさんが最初に気遣ってくれたことは、NPOを立ち上げた報告を東京事務所のラクパさんにしておいたらというものであった。

正式に認可されるのは10月で東京を出る前に申請が受理されたので、余裕はなかったことと、今回初めて実績を上げられたこともあって、帰国したら報告に行く理由ができたので、ちょうどいいと思うと答えた。東京事務所も1年間まったくご無沙汰してるし、行くきっかけを失っている。今回東京の法王様のお誕生日の祝賀会にはじめて招待状をいただいたことも話した。このことが一番目であった。

ジェツン・ペマさんからお坊様へのマッサージの依頼について、そのこともラクパさんに報告する課題ができたという。問題は江川さんたちとも話したけれど時期の問題がどうなるかということであった。通訳をマリアさんにお願いしたいと言うことも承知していた。私がマリアさんに相談したのは、むしろ、チベットサイドで計画を立ててもらって、それに江川さんが予定をあわせるというようにしたほうがいいので、チベットサイドで決めてほしいということであった。それとすでにナワンやツェンキーさんらが習得しているので、基礎的なコースはチベタンサイドでやってもらって、余裕のない江川さんにはお坊さんからの疑問点や実際の注意点などを効率的に行うのがよいのでは提案を私がした。

マリアさんもお坊さんがどういうレベルの方か知らないので、それもふくめてチベット人サイドと相談したほうが良いというもので、ダラムサラに帰ってくる日に相談できるようにしておくというになった。ツェンキーさんにペマさんと話しをしてもらえるように要望しておく必要がある。

ラダックから帰りにダラムサラまで戻り、報告をして帰ることはとてもいいことだとマリアさんも賛成してくれた。

以上は大事な話し。次に久保さん関連の話しになって、カーラチャクラのときに40人くらいのツアーを龍村和子さんと組んで、インドに来たのだけれど、かなり不評を買い、参加した人たちがチベットを嫌うようなことになったというような噂が入ってることとか、そのときに東京事務所の守屋さんが個人的に見えてて、その様子をすべてラクパさんに報告して、ラクパさんも困っていたというような話しをした。

風のツアーで来た人が里親さんになったので、TCVのツアーを組んでいるところとしてKIKUを紹介したけれど、今度は私のところも紹介しますという話しにもなった。

4時まで話し込んで、亡命チベット人の子ども達の将来を思って活動を続けることに賛同をいただいた。

私の誕生日をマリアさんと二人で祝った。すっかりご馳走になってぴーすハウスに戻り、6時半からのチベットオペラを見に出かける。ヴィレッジデレクターに出会った。

ビデオ撮影と写真を撮った。9時半に終わり、帰り道なのでホーム2に立ち寄る。ホーム2の二人の女子が参加していた。タシツォも参加していてすぐにわかった