近頃、とみに忘れ方が激しくなり、老人として化していく自分に悩んでいる。この老いることの恐怖と不安を克服することはできないのだろうか。

露骨な言い方をすれば、お金の問題でもある。もし喰うに困らず、やりたいことに惜しみなく金が使えるのならば苦しむことはないかもしれぬ。しかし、お金があっても、老いることを防ぐことはできない。そうではなくて、老いることの本質的なこと、つまり、意欲をもっても表現できなくなったあり、実行できなくなり、意欲そのものが限られたり、失われていくことなのだ。意欲を持てば持つほど、意欲と肉体と気力とのギャップを知らされることが、とてもつらい。そして、自分の生の期限を認識っすることで、どう、自分を始末つけるかということにも思いをはせるようになる。

自分をどうっ始末するかと同時に、自分の生きていた「証を何かにまとめておきたいと考える。このブログに書くこともそうだし、っ写真や映像をまとめたり、整理しておくことも目標になる。だけどそれをするにも時間的な余裕がないようにも思えて、そう老いることの脅迫概念みたいなものを抱く。


癌をわずらったり、脳出血をっしおたり、肉体的な脅威が常に迫ってきている。

自らが老人と認知するのは、どういう状態であるのだろうか。このように老いと向き合うことができているうちは、まだ老いてはいないということなのだろうか。

やりたいことがあるけれど、それが経済的な理由でできないなどというのは、常のことであり、老いの問題ではない。老いの問題は、時間の有無なのだろうか。

時間が無くなること、死に至ることの認知。どういう死を迎えたいかを考えるのが老いることなのか。


老いることというのは、生物学的な現象としてとらえればいいのだろうか。

脳的な意味での老いもあるだろう。でも自分は何によって老化を覚悟するのか。でも覚悟してもなお、聞き根羽ならないとすれば、老いて生きるとはどういうことなのか。それを考える。


老いることに備えるのではない。もうすでに老いてきている。肉体はすでに老いの領域に突入している。ボケもはじまっていつに違いない。

このようなことを考えるのも老いの現象なのだ。

ではどうであればいいのだろうか。老いることを恐れずに、受け入れていくことのためにはどう生きていればいいのだろうか。


まだ悩みの状態から抜け出ていないのではないか。この悩みから脱出するにはどうしたらいいのか。

仕事をなおも一生懸命やればいいのだろうか。仕事をするということが、現役の世代の人たちと交わっていけることなのか。


今はここまで。