つい最近、久しぶりに、ネットでMaxWeberを検索したところ、「羽入・折原論争」というのがあって、思わず開いてみた。

羽入というのは2002年に「マックス・ウェバーの犯罪」という、いかにもショッキングな題名の本を出された羽入辰郎という人と、折原さんというのは、私が学生のころに東大で教鞭をとっていた、当時は若きウェーバー研究者の一人であった。

羽入の本は本屋で見て、内容がドキリとした。つまりウェーバーの「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」の論文に対して、ウェーバーが資料操作をしていて、誤った資料を使ったり、適当な解釈をしていて、論文を作り上げているということを追求して、ウェーバーの知的誠実性に疑いをかけて、この論文がでっち上げ打とぶち上げたのである。

読めば読むほど、ショックは大きくて、「まさか」と思っても、それに反論するなにものも持たないものとしては、黙っているしかなかった。だけど、論点は、ウェーバーテーゼを正面から取り扱ったものではなく、脚注の資料を取り上げているのだが、ルターのberufの訳に関しての指摘や、Callingの訳に関するものであり、はたまたフランクリンの有名な一説についての指摘であるので、見過ごすわけにはいかないものだった。

羽入はウェバーのいう近代資本主義の<精神>という概念を否定して、そもそもそれはウェーバーのでっち上げだと主張したのだ。

私は、この論証が事実なら大変なことになると思っていたが、その後たいした動きもなかったし、ウェーバーテーゼが崩れるとは思ってもいなかった。

「羽入・折原論争は」2004年に展開されて、北海道大学の橋本教授が、ネット上にこの問題を取り上げるようにしたので、それを目にしたのだ。

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Max%20Weber%20Dabate.htm


正直、羽入の論文はショッキングだけど、どうもまじめでない感じがして、気になっていた。ウェーバーの問題を奥さんに話をして、示唆をもらったとか、面白半分に書いている。

まあ、しかし、この彼が論証しようとした問題は、アメリカの英語訳などではカットされているかもしれない脚注であり、私もこの脚注まで読み込むのは苦労していた。またキリスト教の文化圏にいないものにはわかりづらい部分がたくさんある。

また羽入のウェーバーを揶揄する言語も知的レベルでは気になった。


そしてこの論争の折原や他の投稿者の意見、論文を見て、根底から羽入が、ほんの思いつきというか、それこそ文献学的な実証をせずに、自分の論主を展開したに過ぎず、ウェーバー理解の低さと、ウェーバーを出汁にして稼ごうとする、なんと言うのだろうか低俗な欲目が見えてきた。これに賞まで与えられていることに驚かされた。

羽入は今どうしているかわからないけれど、青森県立保健大学の教授になっていた。

折原の反論に対して、羽入は沈黙したままであり、これは完全に羽入の負けであり、正論は折原らの反論にある。


私は、長いこと心にわだかまっていた疑問が晴れて、じつにホッとしたのだが、冷静に眺めてみると、羽入の貢献は、今まで誰も論証していなかった部分を取り上げたことだ。

この論争を通じて、改めてウェーバーの論主とそのすごさがわかる。それを今まで日本で論証せずに受け入れてきた。ここで改めてウェーバーの脚注の問題が実証され、補強されたと思う。おかげで私の能力では難しい部分が理解できた。

羽入の本が出されてその2年後に折原が反論して、多くのことがわかり、羽入の思い違いも判明した。

そこで、つくづく思うことがあった。羽入はこれだけの論文を書く能力があるにもかかわらず、プロテスタンントの倫理論文の一番核心的部分をつかみながら、なぜこういうレベルに向かってしまったのか。それを考えた。

折原も、少し羽入ペースに嵌っているところもあって、もっと冷静にと言いたいところがないわけではない。

つらつら思うに、羽入はウェーバーを読み込んでいないというか、その全体像をつかんでいないように思える。

この問題提起は奥さんがトイレに「プロテスタントの倫理」を持ち込んで、そこで彼女は「ウェーバーがくだくだしく書いてるから嘘をついている」という直感から始まっている。詐欺師と決め付けたのは奥さんなのだが、それを無批判的に受け止め、それを実証すべくこの論文は書かれた。それで今、改めて手にとって眺めてみると、この本の胡散臭さが見えてきた。

「第一章第2節の(4)非プロテスタント諸国の聖書への不可解な言及」で羽入が指摘する内容を改めて読むと、この人は、ウェーバーをまったく理解していなくて、難癖つけるためにあちこちを読み漁ったに過ぎないと思えてきた。


ウェーバーがこの論文で実証しようとしたことは、西欧のしかもプロテスタント的影響力の強い地域に新しい資本主義が生まれてきたのはなぜかという問いであるから、同じキリスト教内においても、その他のエリアで、berufとルターが訳した言葉が、どのように訳されていたかが問題なのであって、羽入のこの節の指摘だけでも論外な方向にあると言えそうだ。

最初の衝撃から、期間がたち、反論の意見を読んで心落ち着いて眺めてみると、このような論文にうろたえた自分が恥ずかしいように見えてくる。

この人は、木の枝葉をみて森の大きさに気づいていないのだ。ミネルヴァ書店も売れると思って出版したのだろう。山本七平賞までもらっている。驚きだ。


だけど、羽入の「犯罪証明」が逆に明らかにされたので、私は安心してウェーバーを読むことができる。これからの老後の楽しみを邪魔するような著作から解放されてうれしい。

しかし、羽入さんは奥さんの嘘つき呼ばわりでなく、折原さんや宇都宮さんが論証したような検証をしていたら、もっと実りのある論文になったでしょうね。学才はあるのに、動機が悪すぎたかな、もったいないことをされたと思う。

私はこの本を4200円で購入したけど、古本屋の引き取り値段はいくらかな。それとも本棚においておくか、思案中だ。

やはり私の書棚にはふさわしくない本だろう。