最後に書いたのはいつだろうか。

2011年に入って、私は2月の下旬に確定申告を終えて、まずは一息入れた。

近況を話すと、1月、2月と毎週のように山に入って、登山復活となり、冬山をあるくことになった。昨年の11月からであった8人ほどのメンバーで、12月、1月、2月と山に行くようになって、少しくたびれた。


3月11日に、東日本代震災と呼称される大地震と津波が日本を襲った。

当日私は家に折、妻は新宿のパート先の店にいた。娘二人も東京のしごと場にいた。

マンションでの揺れは、今までに経験がないようなものであった。本箱が倒れるのを危惧した。多なの上の不動明王像と二体観音菩薩像をまず、下に下ろした。我が家で倒れる心配があるのは私の部屋と客間の仏壇だけだ。仏壇には支えがしてある。まずは自分の部屋。オカムラの組み立て式の本箱が崩れそうになった。少し右に傾いだが、なんとか食い止めて、その状態で固定した。

それから居間のほうに行くと、額縁が揺れているので、取り外す。2mほどに伸びたサボテンが鉢ごと倒れた。仏壇のお花が花瓶ごと落ちて畳がぬれていた。

台所の壁に並べてある金具が揺れて音を出している。かなり長い揺れであった。10分以上はあっただろう。その後も揺れているようで、余震ともつかぬゆれが一日中あったような気がする。

その日は本庄に出かける用事があったので、地震が収まってから、車で外出した。川越所沢線から16号にでて高速に乗ろうとしら通行止めになっており、16号は渋滞している。これは想像以上にすごいことになったのかと、考えて家に引き返すことにした。買えるまでに時間がかかった。電話がつながらず、妻や娘のことが気がかりになった。家について車を車庫に入れてから部屋にもどり、その日はそれから外に出なかった。

前日に満タンに給油しておいたので、少ししか走らなかったので、そのままの状態で車庫においておいた。

結局夜になって、妻や娘との連絡が取れた。妻は新宿の娘の家に泊まった。上の娘は亭主と一緒に仕事場に近い青山学院大学の避難所に行き、一晩を過ごした。下の娘はお台場の仕事場で昨年結婚した亭主も同じ会社なので、会社で一晩社員たちとすごしたようだ。

いずれにせよ、家族は無事だったが、TVの報道でその被害の大きいことには驚かされた。


3月17日からインドに行くことにしていたが、この状態の日本を出るのは後ろめたい感じがして躊躇していたら、Fさんから同じ心配wいわれたので中止しようと考えて、チベット支援んグループのEさんにも伝えた。

しかし、15日だったかな、TCVのTsenkyiさんからメールが来て、ダライラマ法王やTCVの子どもたちが日本のためにお祈りをしたと報告してきた。それを読んでいくことを決めた。

ところが、リムジンバスが運休になったと通知が来て、空港へ行く手段は、と困惑した。このとき西武線はまだまともに走っていないのだった。

日本は福島第一原発の事故で、電力不足ということで、電車がまともに運転されない状況が続いていたのだ。Fさんもガソリンがないということで、困惑していたが、Eさんの車が満タンだったので、お互い車で成田まで行くことにした。


出かける前に、YouTubeから地震と津波の映像を集めてDVDを作り、インドで見せられるように用意した。今回は映像つくりで、出かける前の1週間は忙しかった。

13日は日曜日で、山仲間と筑波山に行こうと予定していたが、取りやめにした。事態がそんな雰囲気でjはなかった。


今日はともかく、インドに出掛ける前までのことを書いておく。書かないと忘れてしまう。