「生まれたくなかった」

ふとした時にこの思いが頭の中に湧き上がってきます。

なぜ生まれたくなかったと思ってしまうのかはいまだにわかりません。

 

 若い時は、こんなことを考えてしまう自分はダメな人間だと思っていたのですが、最近はこうした思いを持ってしまうことは、それが自分の人生のテーマだからではないかと勝手に考えています。自分が生まれてよかったと思える人生にする。そして、自分が生まれた意味を、生きていく意味を知ることがテーマの人生である、そんな気がしているのです。

 

 そんなことを考えずに前向きに生きろよという人もいると思うのですが、そういう問題ではないのです。「生まれたくなかった」つまり、なぜ自分は生まれたのかわからない、なぜ自分は生きるのかという問いを自然と持ってしまうのです。問わずにはいられないのです。その問いから目を逸らすことができないのです。

 

 私の場合、「生まれたくなかった」というのは、自分が自分であっていいという手応えがないと言い換えることができるかもしれません。自分の内面と向き合い、自分にとっての幸せとは何なのか、自分とは一体何なのかという問いに対する自分なりの答えを出すことができれば、この手応えのなさは浄化され消えていくと思っています。この問いに対する答えは、自分の外側にはないような気がしています。自分の外側というのは、社会や世間、周りの人間、一般常識などが良しとする陳腐な幸せを追い求めることです。

 

「生まれたくなかった」という思いを持ってしまう人がいたとしたら、その人はやはり自分の内面と向き合うことができる人、もしくは、自分の興味・関心が自分の内側に向いている内向的な人が多いと思います。そうした深い考えを持つ人が発した問いであるので、それに対する答えは、やはり誰かが勝手に決めたものではなく、自分自身が深く納得できるものでなければ満足できないと思います。自分は何をしている時が幸せなのか、自分は一体何をすればこの人生に満足できるのかという、深い深い精神的幸福を、このような人たちは求めているのではないでしょうか。

 

 私も内向的な人間なのですが、初めは社会や世間が称賛するような価値観を基準にして、自分が満足する結果を残そうとしていたのですが、まったく満足できないのです。それどころか、大多数の人が称賛するようなものにあまり価値を感じなかったり、大多数の人が楽しめるような世の中の流行りなどが理解できないことが多いのです。それに気づいてからは、社会や世間の価値観は基準にせず、自分はどうしたいのか、自分はどうすれば幸せを感じられるのかを基準にして、生きていきたいなと思うようになりました。

 

 自分の内側を深く見つめ、自分の精神的幸福を求めることをせずに、そうしたことから目を逸らして、世間がもてはやすようなものを追い求めて生きていくこともできるのかもしれません。しかし、「生まれたくなかった」というような、深い考えを持っている人は、その考えから目を逸らして生きていくことはできないと思うのです。もしくは、目を逸らしたとしても、大きな力が働いて、その答えを見つけていく人生に引き戻される気がしています。なぜなら、それがこの人生での課題だからです。

 

 私は自分が生まれた意味や生きていく意味をまだ獲得できていないのですが、皆さんはどうでしょうか。「生まれたくなかった」という思いを持っている人は、その答えである「生まれて良かったと思える人生を歩むこと」「自分なりの生まれた意味を見つけること」に向きあうことが、人生のテーマなのかもしれないという視点を持ってみてはいかがでしょうか。そのために、「生まれたくなかった」という思いを持たされている。そんな気がしています。ここまで読んでいただきありがとうございました。