時間とは何か、嘗ての講習生と久し振りに会った後に考える
今から数年前、翌年に受験を控えた師走の12月、世界史を苦手とする受験生を第2週から担当することになりました。
もう時間もなく、合格は無理だと思える老舗の難関私大を希望する受験生でした。
今ではすっかり時代遅れとなった、地獄の特訓を重ねることになりました。
1日5時間から6時間もウルサイ先生の私と一緒にいるのです。
現役の高校生で、まだまだ子供だと感じるその子にはきつい毎日だったと思います。
三科目しか受験科目がない文系私大では、一科目が壊滅的な実力ではとても合格は無理です。
そう思っていた悲観的な私とは関係なく、その子は驚く集中力と意志力で大量の歴史知識の暗記と流れに対処してゆきました。
同時に英文の読解力と文法語法、そして国語の現代文、古文漢文、小論文にも対応が必要でした。
しかしその子は、そこらの男子よりはずっと逞しい女の子だったのです。
無事合格したその結果は、私の意識にも新しい方向性と意志力を植え付けました。
特に記憶に残る受講生となったのは勿論です。
そして数年後の秋晴れの一日、思いもかけないことが起こりました。
お母様から突然のご連絡を貰ったのです。
毎日講習をしていた山の手線の駅近くで、心ゆくまで語り明かそうという嬉しい内容でした。
一緒に過ごしてきた時間が私の頭の中で再び流れました。
既に卒業し、在学中に困難な国家試験に合格し、その技量を存分に発揮して活躍しているという彼女はどうなっているのでしょう。
嘗てのあの子とは違い、恐らく会ってもわからないと思え、お母様にも向こうから言って貰わないと判断できないと推察されました。
これまでにも大学に入ると途端に変わってしまう、それは何か光るものか、活力なのかわかりませんが、とにかく眩しくなってしまう変貌を何人となく見て参りました。
鏡に映る自分の顔を見て、薄くなった頭髪、しまりがなくなってきた表情など、この顔で会いに行っていいのかどうか迷うくらいでした。
時間の流れというものは、本当にあるのでしょうか。
それは船の様に浮いて流れて、過去が上流で未来が下流にあるのか、
それとも未来から流れてくる強い流れの中を、後戻りできずに未来に向かって歩いているのか、
未来が上流で下流が過去となり、海に過去が貯まってゆく方がしっくりする気もします。
昔読んでよくわからなかったブルーバックスの本をひっぱり出して、再度読み始めました。
時間の正体はわからないままですが、母娘との数年ぶりの出会いは充実した夕べの時間となってくれたのです。
お母様の穏やかな笑顔と見守る温かさが初対面みたいな場をくつろがせ、
娘さんは予想通り、あの子とは呼ぶことはできない眩しさを振り撒き、
擦れ違ってもわからない表情と姿になっていました。
時間の演出には太刀打ちできません。
久し振りにおいしいお酒とおつまみを堪能しました。